「わが祖国」への忠誠と怒りを歌い続けた男

- ウディ・ガスリー Woody Guthrie -


<2017年2月追記>

<「ホーボー」としての人生>
 1960年代から70年代にかけて、アメリカの映画界では、ニューシネマと呼ばれるジャンルがブームになっていました。
俺たちに明日はない」(1967年)、「イージー・ライダー」(1969年)、「真夜中のカウボーイ」(1969年)、「明日に向かって撃て」(1969年)、「ファイブ・イージー・ピーセス」(1970年)、「断絶」(1970年)、「アリスのレスラン」(1970年)、「スケアクロウ」(1973年)・・・
これらニューシネマの名作のほとんどに共通している点をひとつあげるなら、それは「旅」ということになるでしょう。未だにアメリカにおける重要な映画のジャンルとして「ロード・ムービー」というものが存在しているように、アメリカという広大な国に住む開拓民の子孫たちにとって、「旅」は人生の大きなテーマであり続けています。そして、その原点にあるのがアメリカ特有のライフスタイルである「ホーボー」です。
 アメリカには、定まった住所を持たずトレーラー・ハウスで移動しながら生活する人々が未だに数多くいるそうです。旅そのものを人生と考える人々、そんな人々をアメリカではよく「ホーボー Hobo」と呼びます。正確には、働きながら汽車を使って移動して行く移動労働者を「ホーボー」と呼び、単に汽車にただ乗りしながら放浪する旅人は「トランプ」と呼ばれていたとも言われています。 (ちなみに、ザ・バンドの名曲のひとつ「ホーボー・ジャングル」は、「ホーボーたちの集まる場所」を表す言葉だそうです)
 そして、そんな放浪者たちが旅をしながら見たこと感じたことを歌にしたものが、1930年代の大不況時代に数多く生まれました。それはカントリーやブルースをもとにギター一本で歌われたフォーク・ソングのプロトタイプでした。時代的にほとんどはレコードなどに記録されることもなく、歴史の影に消えて行ったのですが、アメリカの民族音楽研究家ジョン・ロウマックスとその息子アランらの地道な努力によって、わずかながらいくらかは記録として残されました。しかし、そんな「記録としてのホーボー・ソング」とは別に、生きた歌としてその後もホーボー・ソングを歌い続けた人物がいました。それがアメリカにおける「フォーク・ソングの父」と呼ばれる人物、ウディ・ガスリーです。
 ただし、彼がホーボー生活をするようになったのは、けっして貧しくてそうなったわけではなく、自ら志願してオクラホマ出身の貧乏白人(オーキー)の役割を引き受け、その役柄を生涯通じて演じ続けることになったのでした。

<波乱に富んだ人生の始まり>
 ウディ・ガスリー(本名ウッドロウ・ウィルソン・ガスリー)は、1912年オクラホマ州の田舎町オキーマに生まれました。(ウッドウ・ウィルソンという名前は、彼が生まれた年に大統領に指名された人物の名前からとられました)人口千人ほどの小さな農業の町、オキーマは、何度となく砂嵐や竜巻に襲われ、彼の家も竜巻によって飛ばされたことがありました。
 彼の父親、チャールズ・ガスリーは不動産業を営んでいて、彼が生まれた頃はかなり羽振りが良かったようです。ちゃんとした教育も受けた典型的な中産階級の子供でした。しかし、1930年代の大不況時代に入ると一気にその財産を失い、それと同時に人生におけるツキまでも失ってしまいました。そのせいか家が火事になったり、竜巻に飛ばされたりと不幸が重なり、ついにはウディの母親が精神病院に入院、そこで息を引き取ってしまいます。父親も肉体労働者として働きますが、家族を養って行けず、ついに家族はバラバラになってしまいました。
 彼の人生にとって、家系的に受け継がれてしまった遺伝病のひとつハンティントン舞踏病の影響は非常に大きく、それが彼の音楽や生き方の原点になったともいえるかもしれません。その点について、村上春樹氏が音楽評論集「意味がなければスイングはない」の中で以下のように書いています。

 このようないくぶん分裂的な気質、性向には、あるいは母親から遺伝した「ハンティントン舞踏病」は遺伝病であり、三十代から五十代にかけて発病し、脳の損傷が徐々に、しかし確実に進行する。・・・
 ガスリーの母親は十歳を過ぎたころに発症した。彼女は一種の忘我自失状態になるか、あるいは鬼のように激怒するかというのを、日常生活の中で代わりばんこに繰り返した。・・・
 ガスリーが強く家庭を求めながらも、また母性的な存在を強く求めつつ、同時に母性を強く恐怖したのも、そのような経緯がもたらしたものかもしれない。

村上春樹「意味がなければスイングはない」

<孤独な旅路へ>
 ウディは、住む家のない浮浪者のような生活を始めますが、ある日親戚から西海岸に来ないか?という誘いを受け、一人カリフォルニアへの旅に出ます。そして、この時から彼のホーボー生活が始まります。
 この旅で知り合った果物農家を巡る移動農業労働者の家族たちとの交流は、彼に大きな感動を与え、後に彼が映画館で見たジョン・フォード監督の傑作「怒りの葡萄」(ジョン・スタインベック原作)の影響の元、「砂嵐バラッド集 Dust bowl ballads」としてアルバム化されます。この作品は1940年にアラン・ロウマックスの尽力により、大手のレコード会社RCAから発売されることになり、彼の名を全米に知らせるきっかけとなります。

「飢えて苦しむ人間がいたら、僕はそのなかにいる」(I Will be there)
「警官に殴られている人間がいたら、僕はそのなかにいる」
「怒り、叫ぶ人間がいたら、僕はそのなかにいる」
「食事を前に笑っている子供たちがいたら、僕はそのなかにいる」
「人が自分の育てた食べ物を食べ、自分の建てた家に住むようになったら、僕はそのなかにいる」

映画「怒りの葡萄」より

「The Great Dust Storm」
On the fourteeenth day of April, of nineteen thirty - five, There struck the worst of dust storms, That ever filled the sky.
You could see the dust storm coming, It looked so awful black, and through our little city, It left a dreadful track.

1935年の4月14日に 見たこともないような
どえらい砂嵐がやってきたよ
空がとにかく真っ黒になって 遠くから砂嵐が来るのが見えたよ
それは俺たちの小さな町に 恐ろしい跡を残していったよ

 ごらんになればわかるように、簡潔きわまりない英語だ。だからアメリカでウディ・ガスリーのレコードやCDを買うと、歌詞カードなんてものはまずついてこない。「そんなもん、聴けばわかるだろ」ということになってしまうのだ。ガスリーは音楽を聴く人々に歌詞のメッセージをクリアに伝わるよに、できるだけう簡単な言葉を使い、聞き取りやすい鮮明な発音で歌う。
村上春樹「意味がなければスイングはない」

<「栄光へ向かう汽車」の発車>
 1943年、彼は自らの前半生を自伝「Bound For Glory ギターをとって弦をはれ」として発表します。オリジナルの詩を死ぬまでに1000曲以上作っていたという優れた詩人ウディの作品は、1930年代大恐慌時代のアメリカ大衆文化の貴重な記録というだけでなく、苦しみを乗り越えながらアメリカを立ち直らせた名も無き人々への素晴らしいオマージュとして絶賛されることになります。(ボブ・ディランも、この本を読み、ウディに憧れるようになったと言われています)

 彼は数多くの音楽を作ったが、そのほとんどは「一回限り」のもので、歌い終えれば、端からどんどん忘れていった。彼は生涯に1200ほどの曲をつくったと言われているが、ほとんどは歌詞だけが残されていて、メロディーは記されていない。
 ガスリーは音楽というものはメッセージを運ぶ生き物であり、その場の使命を果たせば、そのままどこかに消えていってもかもわないと考えているみたいだ。

村上春樹「意味がなければスイングはない」

 後に彼の自伝はハル・アシュビー監督によって映画化され、「わが心のふるさと Bound For Glory」というタイトルで公開されています。主演はデヴィッド・キャラダイン。B級映画がほとんどだった彼にとって、この映画は代表作となりました。
 彼はなぜ人々の為に歌うようになったのか?そのきっかけについて、ジョー・クラインによるウディの伝記にこう書かれています。

「みんなはいつも古い歌を聴きたがった。貨車の中で洒落たフォックストロットの曲を聴きたがるものはいなかった。そしてそれらの歌がどれくらい強い効果を発揮するかを知って、ウディは驚いてしまった。彼が歌を歌うと、時には大の男たちが目をうるませ、合唱するときにはその声は震えた。母親から教わった感傷的な古いバラードが、同郷の人々の心を結びつける絆になった。・・・
 それまでウディは自分が何かのグループの一部であると思ったことは一度もなかった。しかし彼は今こう思うようになった。自分は一人のオーキーであり、この人たちは自分の仲間なんだと」

村上春樹「意味がなければスイングはない」

<ホーボー生活を選んだ男>
 
もしかすると、彼が本当に偉大なのは、アーティストとして優れているからというよりも、苦しく危険の多いホーボー生活を自らが望み、楽しんでいた優れた人間性なのかもしれません。
 最初の旅でカリフォルニアの親戚を訪ねあてた彼は、その親戚が驚くほど裕福であることを知ります。ところが、食うや食わずでかろうじてたどり着いた一文無しの彼は、その豪邸の玄関のベルを押すことなく、再び旅路についてしまったのです。彼はたとえ裕福であっても一カ所に止まる決まり切った生活が耐えられなかったのです。
 さらに彼はミュージシャンとしてラジオ局のオーディションを受け、ニューヨークで契約するチャンスを得たものの、自らそのチャンスを捨ててしまいます。彼は、何物にも束縛されることなく自由に歌いたかったのです。
(追記)
 「ホーボーライフ」を描いた映画としては、もう一本ロバート・アルドリッチ監督の汽車を舞台にしたアクション映画「北国の帝王」もお薦めです。ホーボーたちの生活を再現した貴重な映画であると同時に娯楽性も兼ね備えた良い映画です。出演は、キース・キャラダイン、リー・マービン、アーネスト・ボーグナイン(最高の演技です!)

<メッセージと音楽の融合>
 彼は、ホーボーとして旅をしながら歌い続けただけでなく、厳しい労働環境と低い賃金に苦しむ人々のために抗議の歌「プロテスト・ソング」を歌い続けます。しかし、残念なことに、彼はそんな旅から旅の人生をいつまでも続けることができませんでした。ハンティントン舞踏病という特殊な神経の病に冒されてしまったのです。しだいに彼は、歩くどころかしゃべることも困難になり、寝たきりの生活を余儀なくされます。こうして、彼はその生き甲斐である旅の生活に別れを告げることになりました。そして、彼が不治の病によってその存在を忘れられつつあるころ、ギターを抱えた若者たちが彼のもとを訪れるようになり始めます。彼らは後に「ガスリーズ・チルドレン」と呼ばれるようになります。
 唯一の愛弟子、ランブリン・ジャック・エリオット、それにボブ・ディラン、トム・パクストン、フィル・オクス、ジョーン・バエズ、ジェリー・ジェフ・ウォーカー、本物の息子アーロ・ガスリー、それ以外にも時代を越えた弟子たちとしてライ・クーダーブルース・スプリングスティーン(「ゴースト・オブ・トム・ジョード」はまさにウディーに捧げられたアルバムです)、ビリー・ブラッグ、ベックまで、その影響を受けたアーティストは後を絶ちません。
 ウディの生き方は、西へ西へと旅することで作られてきたアメリカという国の象徴であり、それは音楽界だけでなくジャック・ケルアックの「路上」に代表されるビート世代へも受け継がれ、それがさらににロック世代へと受け継がれて行くことになるのです。

 ガスリーの考える音楽とは、揺らぐことのない原則を追及する手段でなくてはならず、そのための必然的なかたちをとっていなくてはならなかった。そして彼の場合、その原則はきわめてわかりやすく、オプティミスティックで、明快なものだった。歌を作り、それを歌うものは、人々に語りかけるべき確たるメッセージをもたなくてはならない。・・・
 ウディ・ガスリーは(彼の考える)正しき音楽にとって必要な「精神的支柱の立ち上げ」を、ほとんど独立でおこなったのである。

村上春樹「意味がなければスイングはない」

「・・・ウディにストイートなところはない。彼の歌う歌にスイートなところはない。しかし彼の歌に耳を傾ける人にとっては、もっと大事なものがそこにある。圧迫に耐え、それに抗して立ち上がろうとする意志が、そこにはあるのだ。それをアメリカ魂と呼んでもいいだろう」
ジョン・スタインベック

<ウディ・ガスリーというアーティスト>
 ウディ・ガスリーは、生き方そのものがアートでした。したがって、彼のことをプロテスト・ソングを歌う単なる左翼系活動家ととらえてしまうのは間違っているでしょう。彼は、子供たちのための歌や恋人たちのための歌、それに悲惨な事件やおかしな事件を歌ったものなど、人生のいろいろな場面を歌にする幅の広いエンターテナーでもありおました。

「ウディはすごく性的な男で、性的な歌を、すごくセクシュアルに歌った。歌を通して女の子たちに名クラブしているみたいなものだった。それで女の子たちが彼に引き寄せられたんだ」と当時の知り合いは回想している。そういう意味では、カリスマ的な人格を有していたことは確かなようだ。・・・彼は労働者の権利のために闘ったが、彼自身はまともな労働に携わったことはほとんどなかった。(どうやら彼は地道な労働にはむかない人間だったようです)
村上春樹「意味がなければスイングはない」

 ウディ・ガスリーはかなり複雑な成り立ちの人格を抱えていた人で、理想主義的で、シリアスな気質を持つ人間でありながら、同時にまた臆面もなく演劇的で、呆れるばかりにちゃらんぽらんな人間でもあった。自己矛盾を抱えていてというよりは、むしろ分裂的であったと言った方が近いかもしれない。・・・
 彼はしばしばホーボー生活を送ったが、それはほかの人々のように必要に迫られてのことではなかった。彼が貨車に飛び乗って無賃乗車をし、鉄道公安員の手で袋叩きにされる危険に直面しながら、あてもなく全国各地をさまよったのは、主としてそのような生き方を好んだからだった。

村上春樹「意味がなければスイングはない」

 <ファーク・リヴァイバル>
 ガスリーズ・チルドレンと呼ばれた若者たちランブリング・ジャック・エリオット、フィル・オクス、そしてボブ・ディランらはこうしてウディ直系のフォーク・ミュージシャンとしてそのスタイルを受け継いでゆくことになりましたが、そんな若者たちの動きに象徴されるフォーク・ソングへの関心が、1960年代初めのファーク・リヴァイバルという一大ムーブメントを生み出すことになります。
 そして、現役を退いていたウディについに注目が集まるようになりました。しかし、その頃すでに彼の病状は歌を歌うことすら困難なほど悪化しており、見舞客が誰なのかを認識できているかどうかも怪しかったと言われています。
 少しずつ死へと近づく悲劇的な人生についに幕が下りたのは、彼が55歳になった1967年9月3日のことでした。1967年、それはプロテスト・フォークのもつメッセージ性をロックン・ロールが吸収し、新たなスタイルを確立することで始まった「ロック黄金期の頂点」の年でもありました。

<締めのお言葉>
「それならそれで結構ですよ」と野蛮人は昂然として言った。
「わたしは不幸になる権利を求めているんです」
「それじゃ、言うまでもなく、年をとって醜くよぼよぼになる権利、食べ物が足りなくなる権利、しらみだらけになる権利、明日は何が起こるかも知れぬ絶えざる不安に生きる権利、チフスになる権利、あらゆる種類の言いようもない苦悩に責めさいなまれる権利もだな」
永い沈黙が続いた。
「わたしはそれらのすべてを要求します」と野蛮人はついに答えた。

オールダス・ハックリー著「すばらしい新世界」より

<追記>(2017年2月)
<永遠なるガスリーズ・チルドレン>
 2017年2月6日「スーパー・ボウル」のハーフタイムショーでレディー・ガガがウディの「わが祖国」の一節を歌いました。
 トランプのご乱交に対して何かやるのではと思っていたのですが、実に大人な対応でした。子供以下の対応しかできないトランプとは大違いです。
 レディー・ガガもまた21世紀のガスリーズ・チルドレンのようです。なお、以下にこの曲の歌詞を書いておきますが、どうやらこの曲には別バージョンもしくは続きがあるようです。そこには、当時のアメリカに対する批判が込められていました。そして、それは現在のアメリカにも当てはまるようです。
 これからも、アメリカが危機に陥るたびに、新たなガスリーズ・チルドレンが誕生することになるのかもしれません。

「わが祖国 This land is your land」
This land is your land,
This land is my land,
From California
To the New York Island,
From the redwood forest,
To the Gulf stream waters,
This land was made for you and me.

As I was walking,
That ribbon of highway,
I saw above me
That endless skyway,
I saw below me
That golden valley.
This land was made for you and me.

I've roamed and rambled
And I've followed my footsteps
To the sparkling sands of her diamond deserts
And all around me a voice was sounding
This land was made for you and me

The sun comes shining
As I was strolling
The wheat fields waving
And the dust clouds rolling
The fog was lifting a voice come chanting
This land was made for you and me

As I was walkin'
I saw a sign there
And that sign said no trespassin'
But on the other side
It didn't say nothin!
Now that side was made for you and me!

In the squares of the city
In the shadow of the steeple
Near the relief office
I see my people
And some are grumblin'
And some are wonderin'
If this land's still made for you and me.

Nobody living can ever stop me
As I go walking
That freedom highway
Nobody living can make me turn back
This land was made for you and me

(注)この曲は、カーター・ファミリーの「When the World on Fire」と「Little Darling」二つの曲のメロディーを組み合わせたものと「アメリカン・ポップス」の著者チャールズ・ベックマンは書いていました。

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