- ウディ・ハーマン Woody Herman -

<「ザ・ハード」の指導者>
 ウディ・ハーマン Woody Herman といえば、独特のネーミングのバンド「ザ・ハード」のリーダーとしても知られています。ただし、「ハード」のスペルは、「Hard」ではなく「Herd」。日本語に訳すと「牛や馬など動物の群れ」もしくはそれらの「群れを集めたり、番すること」となっています。
 ジャズ・ミュージシャンの愛称やバンド名には、洒落たものが多いのですが、この「ハード」は、実に「名をもって体を表す」素晴らしいネーミングです。そのことは、彼の音楽活動の歴史を知るとよく分かります。そこで先ずは、彼の生い立ちからその活動の歴史をみてみましょう。

<生い立ち>
 白人ジャズ・ミュージシャン&バンド・リーダーのウディ・ハーマン Woody Hermanは、1913年5月16日、ウィスコンシン州のミルウォーキーで生まれています。父親がヴォードビル・ショーの芸人だったことから、彼もまた子供の頃から舞台に上がり歌を歌っていました。9歳の時、彼は貯金していた出演料でサックスを買い早くもサックス奏者への道を歩み始め、15歳ですでにサックスを持ってステージに上がっていたそうです。
 その後、彼はクラリネットもマスターし、ローカルのバンドにサックス奏者兼歌手として就職。ただ、この頃はまだジャズではなくポップスを演奏していました。音楽を本格的に学んだのは高校卒業後のこと、短期間大学に通って勉強しながら、彼はミルウォーキーの街のクラブでバンド活動をし始めます。こうしてプロのミュージシャンとしての活動を始めた彼はいくつかのバンドを渡り歩いた後、西海岸のロスアンジェルスにたどり着きます。

<バンド・リーダーとして>
 そして、ハリウッドの劇場でガス・アーンハイムのバンドの歌手として出演していた時、アイシャム・ジョーンズ楽団に入団するチャンスを得ました。当時、アイシャム・ジョーンズ楽団は、今や不滅の名曲となったホーギー・カーマイケルの名曲「スターダスト」を最初にヒットさせた楽団として、新興のデッカ・レーベルにとりドル箱スター的存在でした。ところが、彼がバンドに参加してしばらく後、リーダーのアイシャム・ジョーンズIsham Jonesが、楽団経営のわずらわしさに嫌気がさし楽団を手放してしまいます。1936年、バンド内の新参者だった彼に後継者の話が回ってきました。どうやら芸能人の家庭で育てられた彼には、こうした楽団をマネージメントする優れた才能を持ち合わせていたようです。
 その後、彼はジャズ界で初めて楽団を株式会社化し、バンドのメンバーに株を保有させる方式を導入。自らその株を少しずつ購入してゆき、バンド・リーダー兼代表取締役社長の地位につき、バンド名もウディ・ハーマン・オーケストラに改めました。こうして彼は「ザ・ハード(群れ)」のトップに立ちましたが、経営面だけでなく音楽的にも彼はバンドをリードしてゆきます。

<スウィング・ジャズ黄金時代>
 当時ジャズ界においては、スウィング・ジャズが黄金時代を迎えていて、それを演奏するビッグバンドは花形スターでした。特に人気者だったのは、ベニー・グッドマンやトミー・ドーシーなど白人のバンド・リーダー兼演奏者たちでした。彼らもまたその流行に乗れたのですが、あえて彼は別の道を選択しました。
 多くの白人リーダーのビッグバンドは、黒人アーティストをメンバーに加えるようになっていましたが、レコードやライブ演奏の際、白人音楽ファンを意識して、あえてブルース色の濃い曲を避ける傾向がありました。ライブ会場の観客層によっては、あえて黒人アーティストをメンバーからはずすこともあったようです。それに対して、彼の楽団はメンバーは白人ばかりでしたが、あえてブルース色を前面に押し出す演奏をしていました。デューク・エリントン楽団やカウント・べーシー楽団のサウンドを白人ミュージシャンによって再現する。それは、彼自身がブルースを愛していたからというよりも、メンバーの実力や個性、リーダーである彼のスター性などを考えた末に彼が選択した生き残るための結果でした。要するに、実力的に劣るバンドが同じ路線で挑んでも、人気バンドには勝てない、と考えたわけです。
 この選択は、彼のバンドがスウィング・ジャズのブームに乗る妨げとなりましたが、白人による本格的なブルース演奏という新たな路線に挑んだことで着実にファンを獲得することになりました。それは、リズム&ブルースを歌って白人によるR&B時代を切り開いたエルヴィス・プレスリーの先駆といえるかもしれません。

<ファースト・ハード時代>
 1944年、彼はコロンビア・レコードと契約。この後、彼らはスウィング・ジャズと新たな流行ビ・バップを融合させたスタイルを武器に人気を獲得してゆきます。これが後に第一期ウディ・ハーマン楽団=ファースト・ハード(Fast Herd)と呼ばれるバンドによる最初の黄金期の始まりとなり、1946年には当時人気絶頂の黒人R&Bシンガー、ルイ・ジョーダンを迎えて、「カルドニア Caldonia」を発表。この曲は彼のバンドにとって代表曲となります。
 40年代半ば、すでにスウィング・ジャズのブームは去りつつあり、ベニー・グッドマンやトミー・ドーシーの人気が急降下する中、彼のバンドは次々に新しいメンバーを加え、独自の路線を強めてゆきます。そのメンバーの多くは、後にウェストコースト・ジャズ界のスターとなってゆくアーティストたちでした。彼のバンドにおける右腕的存在だったベーシストのチュビー・ジャクソン Chubby Jackson は、そうした才能ある若手を見つけることで、大きな貢献を果たしたといわれています。
 ピアニスト兼編曲者のラルフ・バーンズは、バンドにおける中心的存在の一人となりました。ピートとコンテのキャンドリ兄弟 Pete &Conte Candoli は、ともにウエストコースト・ジャズ界を代表するトランペッターとして活躍する存在となりました。ジョン・ラポータ John La Porta もやはりウエストコーストを代表する存在となるアルト・サックス奏者となり、現代音楽的な新しいスタイルに挑戦した後、カリフォルニアの名門校バークレー音楽院の教授となりました。フリップ・フィリップス Flip Phillips は、ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックの人気者として活躍するサックス奏者です。
 トランペッターでは、ハリウッド映画の音楽を担当するミュージシャンを集めて録音されたウエストコースト・ジャズ初期の名盤「ショーティー・ロジャース&ヒズ・ジャイアンツ」のリーダーとして有名なショーティー・ロジャースがいました。
 こうした優れたミュージシャンたちのおかげで、彼のバンドは経営的にも安定し、株式会社として見事に成功したようです。しかし、この頃、彼の妻のアルコール依存症と薬物依存が悪化。彼は妻の治療に専念するため、一時バンドを解散せざるを得なくなります。こうして、ファースト・ハードの時代は終わりを迎えました。

<セカンド・ハード時代>
 1947年、第二期ウディ・ハーマン楽団(セカンド・ハード)がスタートします。メンバーを一新したこのバンドの目玉は、なんといっても4人の豪華なサックス奏者でした。
 ズート・シムズ Zoot Simsは、アルバム「Zoot Sims」(1955年)や「Zoot」(1956年)で有名なテナー・サックス奏者(アルトも)。「ミスター・スウィンガー」とも呼ばれたスウィング感あふれる演奏で一時代を築くことになります。
 ハービー・スチュワード Herbie Steward は、最近でも1992年のアルバム「Herbie's Here」でその存在感を示しているスウィンギーなテナーサックス奏者。
 サージ・チャロフ Serge Chaloff は、ソニー・クラークとの共演盤「Blue Serge」(1956年)などの名盤を発表するも34歳という若さでこの世を去った天才バリトン・サックス奏者。
 スタン・ゲッツ Stan Getz は、ウエストコースト・ジャズを代表する白人サックス奏者であると同時に、ボサ・ノヴァの名曲「イパネマの娘」を大ヒットさせたことでも知られています。
 上記の4人を中心に作られたアルバム「Four Brothers(Jazz Standard)」は大ヒットし、セカンド・ハードもまた人気を獲得してゆきます。彼のバンドはウエスト・コーストのクールなジャズをビッグバンドで演奏するという新たなスタイルを確立。新たな時代を築いてゆきました。

<60年代へ>
 1950年代も後半に入ると、ジャズ界ではスモール・コンボのブームにより多くのビッグバンドが解散に追い込まれてゆきました、そんな中、50年代末、彼は新たなハードとなる「スウィンギン・ハード」を結成し、スウィング時代の曲を新たに蘇らせることで時代をなんとか乗り切ってゆきました。
 1960年代も後半に入ると、ジャズ界はロックの影響を受けるようになり、彼のバンドもエレクトリック・ピアノやエレクトリック・ベースなどを加え、ブラスロック的でフュージョン的なサウンドも取り入れるようになります。その後も、彼は1980年代まで活躍を続け、1987年10月29日にこの世を去るまで、現役でバンド活動を続けました。彼のバンドから育っていったソロ・アーティストは数多く、彼のジャズ界への貢献は、「良き羊飼い」として長く語り継がれるべきでしょう。

<代表作>
「フォーブラザース Four Brothers」(1945年〜1947年)
 豪華な4人のテナー・サックスを中心としたセカンド・ハード時代の代表曲を含むコンピレーション盤。ファーストからセカンドまでを含んでいるので、メンバーには、その他、バディ・リッチやピート・キャンドリ、チュビー・ジャクソンらも参加しています。セカンド・ハード時代を代表する曲「フォー・ブラザース」ももちろん収録しています。

「ザ・サンダーリング・ハード The Thundering Herd」(1945年〜1947年)
 1945年から1947年ビ・バップ時代の名演集。彼にとって最大のヒットとなった「カルドニア」も収録してます。

「ウディ・ハーマン・セカンド・ハード」(1948年〜1950年)
 スタン・ゲッツのサックスで大ヒットとなった名曲「アーリー・オータム」などを収めたセカンド・ハード時代の名曲集。

DVD「ウディ・ハーマン・ライブ・イン・64」 (1964年)
1964年に行われたイギリスでのライブ映像。BBCによる貴重なスタジオライブ映像です。
演奏は、ウディ・ハーマンとスウィンギン・ハードで、そのメンバーは、・・・トランペットにポール・フォンテーン、ビリー・ハント、ダニー・ノーラン、ジェラルド・ラミーそして、後にブラスロック・バンド「チェイス」を結成し「黒い炎」を大ヒットさせるビル・チェイス。トロンボーンは、フィル・ウィルソン、ヘンリー・サウソール、ケニー・ウェンツェル。サックスは、サル・ニスティコ、ゲイリー・クライン、ジョー・ロマーノ、トム・アナスタス。ピアノと編曲を担当していた重要メンバーのナット・ピアース。そしてベースがチャック・アンドラスで、ドラムスがジェーク・ハンナという顔ぶれです。
 聞き所は、「フォーブラザース」時代の代表曲「フォー・ブラザース」や「ジャズ・ミー・ブルース」。ヘンリー・マンシーニの代表曲でもある映画音楽「酒とバラの日々」など。さらにラスト・ナンバーとして、彼らの大ヒット曲「カルドニア」も演奏され、ルイ・ジョーダンに代わって元々歌手だったウディが歌ってみせています。

<参考資料>
「生きているジャズ史」
油井正一(著)
「ジャズ・サックス」
2008年 原田和典(監修)
シンコー・ミュージック・エンターテイメント
「ジャズ・トランペット」
2001年 ジャズ批評編集部・編
ジャズ批評社
「ジャズ-ベスト・レコード・コレクション-」
油井正一(著)

ジャンル別索引へ   アーティスト名索引へ   トップページへ