20世紀を変えた大事件
Part 2
Affair of Great Moment


ハンガリー動乱(1956年)
 1953年、ソ連の最高指導者であり、最悪の独裁者でもあったヨシフ・スターリンがこの世を去りました。その後、ソ連の共産党の第一書記に就任したフルシチョフは、独裁者として多くの犠牲者を生み出したスターリンを批判し、政策の大幅な転換を実施します。
農業集団化の緩和、宗教の容認、政治犯の釈放など民主化を進めたソ連の影響は、他の東欧諸国でも民主化が進むきっかけとなりました。
 その中でもハンガリーでは、ナジ・イムレが共産党第一書記に就任し、他国よりも積極的に自由化、民主化を進めてゆきました。しかし、その改革があまりにも急激だったことからソ連の指導部は、東欧圏からの離脱を恐れ、ナジを解任。彼に代わってスターリン主義者のラーコンを第一書記の座に復帰させました。この明らかなソ連による内政干渉にハンガリー国民は反発し、デモや大規模なストライキなどで抵抗。それに対して、ソ連は武力による鎮圧を行うため、戦車部隊による首都ブタペストの包囲を実施します。
 しかし、ハンガリー国民の改革への意思は固く、学生、労働者、市民、そして軍の多くが革命評議会を結成して、ナジを再び政権トップに復帰させました。これによりハンガリーの民主化はさらに進みついには、「複数政党制」、「ワルシャワ条約機構からの脱退」、「「自由選挙の実施」などを宣言。これは事実上、共産圏からの離脱ともいえる内容でした。
 ついにソ連は軍隊をブタペストに向けて侵攻させ、ハンガリー市民、軍隊との戦闘が始まります。各地で内戦が発生しますが、強力な武力を持つソ連軍に対抗できるはずはなく、1万人以上の死傷者を出して、ハンガリーはソ連軍に占領されてしまいました。指導者のナジも、その後すぐに処刑されてしまいます。
 同じように失敗に終わった「プラハの春」より10年も早いハンガリーの挑戦は、「はやすぎた反乱」とも呼ばれましたが、モスクワ主導による共産主義運動の世界拡散の問題点を浮き彫りにし、
左翼運動の中に「反ソ連」、「反スターリン主義」の考えを広めることで、左翼運動の分裂が予見されるきっかけとなりました。
 この事件は、10年後の「プラハの春」を経て、1989年「ベルリンの壁」崩壊へと至ることになります。

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