世界を知りたかった男の探検記

「世界収集家 Der Weltensmmler」

- イリヤ・トロヤノフ Ilija Trojanow -
<英国が生んだ探検家の伝記>
 探検家、領事、作家、翻訳家・・・として19世紀に活躍した実在の人物、リチャード・フランシス・バートン(Sir Richard Francis Burton)の人生を様々な視点、スタイルで立体的に浮かび上がらせた異色の伝記小説です。日本語版のタイトルが「世界収集家」となっていたために速攻読んでみました。(このサイトの読者なら、そうなる気持ちわかるのでは・・・)700ページ近い大著でありながら、一気に読めたのは、この作品が事実を積み上げただけの実録伝記小説ではないからかもしれません。そのための工夫に注目しながら、内容について概要・解説を書いてみようと思います。

<第一部「英国領インド」>
 この部分は、バートンの書いた文章と彼の召使ナウカムラの視点、そして彼の再就職のための推薦文を頼まれた代筆屋による妄想半分の伝記から構成されています。
 1842年、オクスフォード大学を退学させられた彼は、父親の勧めで兵士となりインド西部のボンベイ(現在のムンバイ)にやって来ました。(このあたりは史実)
 平和な土地で兵士としての仕事はほとんどなかったことから、彼はインドの文化を学ぼうと地元の学者に弟子入りし、インド国内で使われる言語と文化について学び始めます。そんな彼に召使として雇われたナウカムラは、雇い主の異常なまでの勉強熱心さに驚かされます。しかし、その変身ぶりにいつしか疑いを持つようになります。

ナウカムラ
「・・・でもあたしの目はごまかせません。サーヒブ(バートンのこと)がどれだけ熱心に奴らの儀式に身を捧げてるか、ほとんど理解できない文句を暗記するのにどれだけ長い時間を費やしているか、すぐに気づきましたよ。それでわかったんです。サーヒブは態度や服や言葉と同じように、信仰もあっちこっちへ、取り換えることができるんだって。そしてね、それがわかったとき、あたしはサーヒブへの尊敬の気持ちの一部をなくしたんです。」
代筆屋
「あんあてゃ心の狭い男だな。場所が変われば信仰も変わる」
ナウカムラ
「どういう意味です?」
代筆屋
「どうして我々の信仰には、これほどたくさんの形があると思う?人が信仰に求めるものが、森と平地と砂漠ではそれぞれ違うからだ。その土地の香辛料が、料理全体の味を変えるからじゃないか。」

 その後、バートンは西部のシンド地方に転属になります。(シンド地方は1843年にインド総督エドワード・ローによって英国の植民地として併合されています)後にパキスタン領となるその地域はイスラム教徒の多い土地で、彼はそこでイスラム教を学び始め、深く傾倒して行きます。そして、軍人である彼はイスラム教徒たちの間で、英国に対する不満が高まっていることに気づき、その状況をスパイ、本国に警告を発します。しかし、まるでイスラム教徒のような彼の存在は軍隊内でも怪しまれるようになり、彼の報告は無視されてしまいます。こうして彼のインドでの生活は終わり、1849年彼は新たな地へと旅立ちます。
 この時ヒンドゥー教からイスラム教へと転向したバートンにとって、宗教は反政府活動をスパイするための手段だったのでしょうか?この本の中のバートンは、けっしてそうした心の変化を偽りだとは思っていなかったようです。

<この時期のインド>
 この本には出てきませんが、1845年にはシーク教徒たちによる反乱「第一シーク戦争」が起き、1847年にはベンガル地方でイスラム教徒による暴動が起き、翌年には再びシーク教徒による叛乱「第二シーク戦争」が起きます。そしてこうしたインドにおける反英国の抵抗運動のピークとなったのが、1957年に始まった「第一次インド独立戦争」(セポイの反乱)です。この戦争は、当初、東インド会社による植民地政策に反発したインド人傭兵「セポイ」による叛乱として始まりましたが、その後インド全体の反英国独立運動へと発展することになります。当初英国政府は、インドにおける反植民地活動を過小評価しており、自分たちが育てた兵士たちに裏切られるとは思ってもいませんでした。バートンは、インド民衆の中に入り込むことで、そうした事態を予測していたわけです。

ナウカラムとバートンの宗教指導者との対話より
 ・・・私は別の男になれば、その男として生きるのがどんなものか、感じることができるんです。それは君の思い込みだって、師は言った。変装をしたからって、魂まで変えることはできないって。ええ、もちろんできません、ってサーヒブは答えた。でもその男の感情は持つことができます。感情は、他人が自分にどう反応するかに基づくものだし、それを感じ取ることができるんですからって。はっきり言ってね、それを聞いてあたしは感動したよ。バートン・サーヒブの言葉は、ほとんど懇願するみたいに聞こえた。それくらい、サーヒブは自分の言葉が真実だって信じたがっていたんだ。でも師は容赦なかった。好きなだけ変装すればいい、だが我々のひとりであることがどんなものか、君が知ることは決してない。君はいつでも変装を解くことができる。君にはいつでも、その最後の逃げ道が残されている。だが我々は、この体のなかに閉じ込められているんだ。断食と飢餓は同じものではないよ。

<第二部「アラビア」>
 この部分は、バートンの書いた文章と彼が発表したアラブの研究書を読んだメッカのシャリフ、イスラム法官カーディー、メッカの支配者であるオスマントルコの総督が、その書に登場する関係者を呼び出して尋問を行った記録から構成されています。
 1853年、バートンはエジプトに転属となり、そこでインド人イスラム教徒としてアラビア語をマスターし、メッカへと巡礼の旅に出ます。その旅の途中、彼は様々な施設や土地を巡りながらその情報を書き残し、帰国後、本として出版します。

カーディー
「・・・私が思うに、このバートンという男は信仰そのものの枠の外にいるです。我々の信仰ばかりではありませんよ。だからこそ、己の意思の赴くままに、どこへでも行くことができるのです。良心の呵責を感じることなしに。この男は、他者の信仰に仕えることができるのです。まるで市場で買い物をするように、気ままに信仰を受け入れ、また放棄し、拾い上げてはまた捨てることができるのです。きっと、まるで我々を取り囲む壁が崩れたようなものです。そして、すべてを信じ、同時になにも信じていないからこそ、少なくとも外面上は、あらゆる宝石に変身することができるのです。ただし、宝石の真の硬さは持ち得ません。」
総督
「なんだか、この男のことをうらやんでいるように聞こえるが?」

<この時期の中東>
 1850年、イギリスがエジプトに鉄道敷設権獲得。
 1854年、英仏トルコ三国同盟成立。フランス人レセップスがスエズ運河の開掘権を獲得。
 1857年、アレクサンドリア - カイロ間に鉄道が開通。
 1859年、スエズ運河建設工事が着工。

<第三部「東アフリカ」>
 この部分は、バートンによる東アフリカ探検記と彼が隊の通訳して雇った奴隷のシディ・ムバラク・ボンベイによる冒険談として展開します。
 ナイル川の源流を探す彼らの探検は、東アフリカ沖のザンジバル島から始まり、西へ西へとジャングルを進んだ後、タンガニーカ湖とヴィクトリア湖という2つの巨大湖に達して終わります。(ヴィクトリア湖の発見は、病気で動けなかったバートン抜きで同僚のスピークによって行われた)
 しかし、ナイル川の源流がどこかという説で、その後バートンと同行の探検家ジョン・ハニング・スピークとの考えが対立。現地人に溶け込む彼の生き方と、それまでの彼の行動から、彼の説よりもスピークの説が指示されることになり、彼はその後アフリカ探検の旅から外されることになります。

シディ・ムバラク・ボンベイ
・・・だがな、一度目の旅の終わりごろになって、ようやくわかったんだ。最初から知っておくべきだったよ。ワズング(白人のこと)たちは、ああいう苦しみなしでは、生きている実感を持てないんだってことを。帰り着く直前で、俺にははっきりわかったんだ。ワズングたちは、ほかの人間が酒やチャットやガンジャ中毒になるみたいに、苦しみの中毒なんだってな。だから、旅が終わって二か月もたたずにワズングに再会したことにも、驚かなかった。・・・

<この時期の東アフリカ>
 1843年頃、イギリス人リヴィングストンによるアフリカ探検が始まる。
 1849年、リヴィングストンがナイル川上流に到達。しかし、その源流は不明のままだった。
 1857年、リヴィングストンがアフリカの探検を記した「伝道旅行記」を発表。
 1858年、バートンがタンガニーカ湖を発見。

<アラビアのロレンスの先駆者>
 リチャード・フランシス・バートンとは何者か?その人生を知れば知るほど興味深い存在です。この本には書かれていませんが、彼はその後、イギリス領事などを務めるなど海外で活躍しながら、翻訳者としても活躍。中東を代表する文学「千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)」を英語に翻訳して出版。さらにインド文化を象徴する古代インドが生んだ性愛論の書「カーマ・スートラ」をも彼は翻訳しています。
 インドと中東、そしてアフリカに身も心も捧げた生き様は本国イギリスで疑いの眼差しで見られることにもなったのでした。しかし、こうした植民地において大きな影響を受けて生き方を変えた英国人は、その後も数多く生まれることになります。
 「アラビアのロレンス」こと、T・E・ロレンスはその代表的存在ですが、他にもベンガルで生まれ歴史的SF小説「1984年」を書いたジョージ・オーウェルや中国での体験から「太陽の帝国」を書いたSF界の大御所J・G・バラード、エジプトで幼い頃を過ごした「スターメイカー」や「シリウス」、「オッド・ジョン」などの作者オラフ・ステープルドン、日本で作家としてデビューした「TOKYO YEAR ZERO」の著者デヴィッド・ピースなどがいます。

バートンの葬儀を行ったカトリックの神父と彼に葬儀を任せた司教の会話より
<神父>
 バートンは少なくとも神は求めはしたのですか?
<司教>
 もちろんだ。そしてほとんどの人間も、神に本当の意味で出会うことはない、と、いつかの晩餐の席で私に言ったことがある。
 神に出会ったりしたらどんなことになるか?その人間の個性は溶解してしまい、神のなかに消えてしまうだろう。個もなくなれば、未来もなくなり、すべてが永遠になるものに吸収されてしまう。神のなかに存在できるのなら、人間でい続けたいと思う者などいるんだろうか、となる。注目すべき論理だとは思わないかね?

<神父>
 そこからバートンにとってどういう結論が導き出されるのです?
<司教>
 我々は探し続けるだろう。もちろん、だが決して見つけることはない、ということだ。まさにそれを、自分は一生のあいだ実践し続けたのだ、とバートンは言ったよ。自分はあらゆる場所で探した、だが多くの人間は逆に、繰り返し同じ鍋の底を覗き込むばかりだとな。・・・

<著者の冒険>
 そんなバートンの特異な生き様を描いたこの作品の著者イリヤ・トロヤノフ Ilija Trojanow 自身もまた、同じくらい特異な人生を送っています。彼は1965年ブルガリアの首都ソフィアに生まれました。しかし、1971年、両親と共に西ドイツへと政治亡命。さらにすぐに家族は父親の仕事の都合で東アフリカのケニアに移住。その後、彼はドイツのミュンヘン大学に入学し、卒業後アフリカ文学を専門とする出版社を設立。1990年代初めには、再びアフリカに渡り各地を放浪し、その体験をもとにして「アフリカにて、東アフリカの神話と日常」(1993年)を発表します。
 1996年には初の小説「世界は広く、救いはいたるところで機会をうかがっている」を発表。1998年、本書を執筆する準備のため、インドに渡りムンバイ(当時のボンベイ)に住み始めます。
 彼は10歳の時に両親に送られた本に書いてあったアフリカ探検の英雄たちの胸躍る物語に感動。いつかその中の登場人物であるリチャード・バートンについて深く調べ、本にしてみたいという思いがあったのでした。その後、彼は中東も訪れ、バートンの旅を追体験することで本書の準備を続け、5年の調査旅行と3年かけた執筆作業の後、この本を世に出したのでした。この本の執筆自体が人生をかけた一大冒険記となりそうです。
 本書の日本語訳タイトル「世界収集家」は、ある意味、19世紀ヴィクトリア女王が君臨する大英帝国そのものを示しているようにも読めます。(1837年~1901年)
 しかし、それ以上に大英帝国を象徴する存在でもあった世界冒険家リチャード・バートンという「世界収集家」の人生を蘇らせた著者イリヤ・トロヤノフもまた「世界収集家」と呼ぶにふさわしい存在だといえそうです。・・・こう書いている僕も、この本についてのページをこのサイトに収められたことで、「世界収集家」のはしくれとして「ニヤリ」としているのですが・・・。
 最後にリチャード・バートンの言葉を
「強き者にとっては、いかなる場所も故郷である」


「世界収集家 Der Weltensammler」 2006年
(著)イリヤ・トロヤノフ Ilija Trojanow
(訳)浅井晶子 Shoko Asai
早川書房

近代・現代文学大全集へ   トップページへ