輝き続ける元祖歌えるアイドル女優


- 薬師丸ひろ子 Hiroko Yakushimaru -
<元祖アイドル俳優>
 「アイドル」という言葉は、1970年代に使われるようになり、多くのアイドル歌手たちを生み出しました。そんな中、1978年公開の「野生の証明」でデビューした薬師丸ひろ子は、最初の「アイドル女優」と言われています。アイドル歌手が俳優として映画デビューする例は、それまでもありましたが、俳優としてデビューしてその後歌手としてもデビューしたのも画期的でした。
 薬師丸ひろ子は、1964年6月9日東京港区に生まれています。本名も同じ薬師丸博子で、父親は会社員、母親は地方公務員というごく普通の家庭で育ちました。彼女が中学2年生の時、角川映画「野生の証明」ヒロイン役が一般公募されます。応募総数2224人の中から選ばれたのは、彼女でしたが、そもそも彼女の友人が勝手に応募したのであって、彼女自身がスターになりたかったわけではありませんでした。そのうえ、当初、審査委員の間では、彼女は2番人気で他に映画の主役のイメージに近い候補がいたようです。しかし、当時角川映画のトップにいた角川春樹が、これから角川映画の看板女優になるには、彼女が最適と考え、審査員の一人だったつかこうへいを説得して、逆転により薬師丸ひろ子が選ばれたのでした。

<「野生の証明」>
 彼女のデビュー作となった1978年10月7日公開の「野生の証明」(佐藤純彌監督)は、角川映画お得意の大々的な広告戦力のおかげもあり、年間興行ランク・トップの大ヒットとなりました。そして、まだ14歳だった主演の薬師丸ひろ子は、一躍アイドル・スターの仲間入りを果たしました。
 彼女は、その後、東宝に招かれ、学園ものの名作「翔んだカップル」(1980年相米慎二)、SF学園映画の「ねらわれた学園」(1981年大林宣彦)に続けて出演し、どちらも大ヒットしました。そして、1981年相米慎二監督の「セーラー服と機関銃」でいよいよ彼女の人気はピークに達します。アイドル女優主演の映画が年間興行収入第1位となったのは、この作品が最初で最後とも言われています。アイドル映画は、そもそも大体がB級映画でそこそこのヒットしか期待されないのが普通でしたが、その常識が覆されました。さらにこの作品では彼女が自ら主題歌を歌い、そちらも大ヒットしました。
 映画公開前の記念イベントで、彼女が新宿アルタ前で主題歌を歌うことが公表されると、新宿駅前に2万5千人ものファンが押し寄せ大混乱になり、機動隊までもが出動する大騒ぎとなりました。
 公開二日目に彼女が大阪の映画館を舞台挨拶にまわると発表されたことから、これまた大阪御堂筋周辺の繁華街が大混乱となり、ここでもまた機動隊が出動する大騒動になり、結局イベントは中止されることになりました。ところが、多くの人が会場周辺から立ち去らず、困った主催者側は薬師丸ひろ子自身に中止についてのお詫びのメッセージを録音させ、各映画館で放送させ、なんとか観衆を解散させました。それでもまだ観衆は、彼女を一目でも見ようと、大阪駅や大阪空港に向かったため、仕方なく彼女はタクシーで名古屋まで移動し、そこから新幹線に乗ったそうです。この顛末は新聞に「機動隊と機関銃」と見出し付きで取り上げられました。
 映画の前売りチケット、パンフレットなどのグッズは、あっという間に売り切れ、映画の名セリフ「カイカーン」が流行語となりました。

<名監督との仕事>
 彼女が俳優として恵まれていたのは、相米慎二、大林宣彦と若手の優秀な監督の作品に出演し、その後も優れた監督の作品に出演を続けられたことです。多くのアイドル俳優の作品は、新人監督かB級映画専門のベテラン監督が担当する場合が多く、そこから一流監督になる例はなかなかありません。その意味で彼女は初めから恵まれていたと言えます。
 さらに彼女は相米慎二監督の「探偵物語」(1983年)では松田優作とも共演。深作欣二監督の「里見八犬伝」(1983)。森田芳光監督の「メイン・テーマ」(1984年)と続き、澤井信一郎監督の「Wの悲劇」(1984年)では彼女自身が日本アカデミー賞最優秀女優賞を受賞し、演技力でも高い評価を得ることができました。この時点で、彼女は「アイドル女優」の枠から脱したと言えるかもしれません。
 監督に恵まれた彼女ですが、もう一つ映画がどん底にあったその時代、映画界に革命を越し、少なくとも活性化に成功し、その後も道を示した角川春樹との出会いも彼女にとっては幸でした。80年代半ばまでの彼女はそんな角川映画との関りによって、守られていた黄金期だったと言えます。

<俳優としての自立>
 デビューしてからアイドル女優として活躍する間も、実は彼女は女優という仕事を辞めたいと思っていました。そして1984年「Wの悲劇」で俳優としてのピークを迎えた感があった彼女は、翌年1985年に角川事務所を退社します。一時は引退も考えた彼女でしたが、個人事務所を設立し、再び俳優として活動を始めますが、これ以後は一枚看板のスタートしての映画ではなく、助演としての活動に切り替え始めます。そのおかげで、フリーとなって以後も、彼女の活躍は続き、脱アイドルにも成功。大人の女性、母親役としてもその実力を発揮するようになります。
 その後も彼女は、滝田洋二郎監督の「病院へ行こう」(1990年)、降旗康男監督の「タスマニア物語」(1990年)、山崎貴監督の「ALWAYS三丁目の夕日」(2005年)など、名監督の作品に出演し、主役以外で輝きを見せる女優となりました。

<テレビへクドカン作品>
 2002年彼女は宮藤官九郎脚本の「木更津キャッツアイ」に出演。テレビでの活躍も本格化することになりますが、人気脚本家、宮藤官九郎作品への出演は、新たな彼女らしさを見出すことになり、その後も多くのクドカン作品に出演することになります。「タイガー&ドラゴン」、「うぬぼれ刑事」、「あまちゃん」、「いだてん - 東京オリムピック噺-」などに出演しています。クドカン作品によって、彼女のコメディ・センスは磨かれ、パイプレーヤーとしての魅力がより大きくなったと言えます。

<輝き続けるおばさんアイドル>
 「自分は本当に女優をやっていていいのか?」
 彼女は、デビューと同時にいきなりアイドルになり、スターになってしまったことで、デビューから7年間ずっと悩んだ末、引退も覚悟して角川事務所を離れました。そしてアメリカへの旅に出てそこで心理カウンセラーに「7年もやってこれなら、それはもうあなたの仕事でしょ!」と言われ、女優活動継続を決意したとか。
 ちなみに彼女は、元安全地帯のミュージシャン玉置浩二と結婚しましたが、同じく7年半の結婚生活の後、こちらは離婚を決断しました。
 おばさんになってもなお、輝きを失わない数少ないアイドル。それこそ彼女が選んだ道が誤っていなかったことの証のはずです。

<参考>
「昭和の映画ベスト10 男優・女優・作品」
 2019年
(著)西川昭幸
ごま書房

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