「人情紙風船」

- 山中貞雄 Sadao Yamanaka -

<邦画の歴史に残る名監督>
 日本映画の歴史におけるベスト10を選ぶ時、常に選ばれる作品として山中貞雄の「人情紙風船」があります。太平洋戦争で命を落とした彼にとって、遺作となり、最高傑作ともなったその作品は、ごくわずかしか現存しない彼の作品の中の一本でもあります。弱冠28歳でこの世を去った彼がせめてその倍くらいでも生きて映画を撮ることができていたら、それだけでも日本の映画史は大きく変わっていたかもしれません。そして、日本の映画界には黒沢明に匹敵する巨匠がもうひとり存在していたはずです。
 戦場で病に倒れた彼が、死の間際にどれだけ悔しかったことか。日本映画を代表する監督、山中貞雄とはいかなる人物だったのでしょうか?

<生い立ち>
 山中貞雄は、1909年11月7日京都に生まれています。学年的には黒沢明監督と同じということになります。第一商業学校を卒業した彼は、映画の世界に憧れて1927年マキノ正博監督の助監督として撮影所で働き始めます。1928年嵐寛寿郎のプロダクションに脚本家、助監督として入った彼は、初めて自身の脚本が採用され1929年「鬼神の血煙」として嵐寛寿郎主演で映画化されます。
 しかし、時代は日本が戦争の泥沼へとはまり始める1930年代となっていて、彼にも徴集令状が送られてきます。こうして、彼は甲種合格で福知山の歩兵第20連隊に入隊します。幸いこの時、彼は戦場に行かずにすみ、訓練期間中、コツコツと映画の脚本を書き続けたといいます。こうして彼は入隊する前後の期間に、「鞍馬天狗」、「右門一番手柄・南蛮幽霊」、「鞍馬天狗・続篇」、「なりひら小僧」、「業早小僧・怒涛篇」、「喧嘩商売」など数多くの作品を書き上げました。
 除隊後の1932年22歳の若さで彼は「磯の源太・抱寝の長脇差」で監督デビューを果たします。この作品はいきなりキネマ旬報の年間ベスト10の8位にランクインする高い評価を得ています。まだサイレント映画の時代だったため、字幕付きだったため、字幕付きだった作品において、彼は独特のスタイルが高く評価されていました。それは字幕を細分化して、それを画面の変化に合わせるようにリズミカルに画面に映し出してゆくという手法です。

<数少ない現存する名作>
 1932年、彼は日活に移籍します。日活での最初の作品は「薩摩飛脚・後篇」で、「時代劇の父」と呼ばれる伊藤大輔監督の前篇に続く作品で、この作品から彼と名優、大河内傳次郎とのコンビが始まることになります。
「盤嶽の一生」(1933年)、「鼠小僧次郎吉」(1933年)、「風流活人剣」(1934年)、「国定忠治」(1935年)など、次々にヒット作を発表。その中でもプリントが現存していて、BS・NHKで放送もされている代表作の一つが「丹下左膳・百万両の壺」(1935年)です。

「丹下左膳・百万両の壺」(1935年)
(監)山中貞雄(原)林不忘(脚)三村伸太郎(撮)安本淳(音)西梧郎
(出)大河内傳次郎、喜代三、宗春太郎、沢村国太郎、花井蘭子、深水藤子
 丹下左膳といえば、伊藤大輔監督と大河内傳次郎コンビによるシリアスでニヒルな剣豪のイメージが強く、その影響は現在にまで受け継がれています。しかし、この作品の左膳は、居候先の用心棒的存在として働く人情味のある人物として描かれています。当時、原作者はすでに亡くなっていましたが、その未亡人が、あまりにイメージが違いすぎると抗議したという逸話も残されています。

 この作品の撮影に新人カメラマン助手として参加していた本多省三は、山中の仕事についてこう語っています。
「彼はすべての脚本やシーンが頭の中に入っていたらしく、現場では同じ背景で何シーンものカットを次々に撮影し、誰よりも無駄なく映画を撮り上げていました」
「銀幕の昭和 スタアがいた時代」(2000年)清流出版

 彼のこの後、前進座との共同作品として3本の映画を撮ります。「街の入墨者」(1935年)は、前科者が再び犯罪に巻き込まれ犯罪に手を染めてしまうという悲劇。「河内山宗俊」(1936年)も彼の代表作とされています。

「河内山宗俊」(1936年)
(監)(脚)山中貞雄(脚)三村伸太郎(撮)町井晴美(音)西梧郎
(出)河原崎長十郎、山岸しづ江、中村翫右衛門、原節子、衣笠淳子
 居酒屋をやっているお静のヒモ、河内山宗俊。用心棒として金を稼いでいる金子市之丞。二人が密かに憧れるお浪(原節子)が、不良の弟の不始末の尻拭いをするため女郎に売られることになります。二人はなんとかそれをやめさせようと命がけの戦いをすることになります。

 1937年、彼は再び黙阿弥原作「髪結新三」を映画化します。それが彼の遺作となった作品「人情紙風船」(1937年)でした。

「人情紙風船」(1937年)
(監)山中貞雄(脚)三村明(原)黙阿弥(音)太田忠
(出)中村翫右衛門、河原崎長十郎、助高屋助蔵、山岸しづ江、露立のぼる、中村鶴蔵、市川楽太郎、市川矢三郎、加藤大介
 貧乏長屋に住む髪結いの新三は、遊び人で有名な男でした。ある日、彼はちょっとした偶然から町の顔役的存在の白木屋の娘を誘拐してしまいます。名門の武家に嫁入りする予定の娘を誘拐された白木屋は大騒ぎとなります。さっそく白木屋は彼が用心棒としてやとっているヤクザのボスを呼んで娘を秘密裏に取り返すよう指示します。
 ちょうど同じ頃、新三の隣に住む侍、海野又十郎は妻と二人暮らしですが仕事がなく生活にも困っていました。彼はなんとか仕官しようと、父親がかつて世話をした武士のもとを訪ねます。しかし、彼は体よく追い払われてしまいます。そして、新三から誘拐の手伝いを頼まれるとその片棒をかつぎ娘を部屋に預かることになりました。
 結局、誘拐は上手くゆき、大家が間に入ることで娘は無事にもどります。しかし、新三はヤクザたちに追い詰められ命を落とすことになります。そして又十郎もまた悲劇的な最後を迎えることに・・・・・。
(追記)この映画は、ジャック・フェデール監督のフランス映画「ミモザ館」を下敷きにしているようです。

<山中貞雄作品の魅力>
 この作品の特徴のひとつは、リアリズムへのこだわりです。特に優れているのは天候の使い方。土砂降りの雨にぬれる又十郎の惨めさ。モノクロ・フィルムにも関わらず、色が見えてくるような雨上がりの美しい空。そして、泥水があちこちに点在する長屋のセット。どれも実にリアルであり、物語とリンクして観客に強く語りかけてきます。
 この映画でもうひとつ注目したいのは、この映画が最初に同じ長屋に住む侍の首吊りから始まり、ラストに再び侍の死で終わることです。そして、その二つの死の間にあるのが誘拐事件なのですが、こちらはなんとものどかな雰囲気です。もともとが嫌われ者のヤクザの親分をギャフンと言わせるためのある種狂言的な犯罪だったとはいえ、長屋の大家までもが協力してしまうという展開はびっくりです。もちろん、その終わり方は主犯である新三の死で終わりますが、彼以外の長屋の人々は呑気なものです。まったく罪の意識などなさそうです。江戸時代の庶民パワーはヤクザよりも強かったのでしょう。
「格好つけて生きてきた侍の時代はもう終わりです」そんなメッセージが読み取れなくもないのです。
 当時、戦時下にあった日本で、この映画は「名誉にしがみつく軍人」と「たくましく生きる庶民」の未来を予見した作品ととらえる人も多かったようです。なるほど、この映画が映画史に残る作品といわれるのには、そうした隠されたメッセージが人々に時代を超えて受け入れられてきたからなのかもしれません。

。だからこそ、彼の映画は単に江戸時代の再現ではなく、より現代的に物語が語られ直されています。それが彼の映画をわかりやすくし、現代の我々でも楽しめるエンターテイメント作品にしているのです。
「時代を越えて、チャンバラとチョンマゲとか、人物の動きを含めて、現代に反芻されてもおかしくない臨場感」
黒木和雄

「登場人物たちは、みな古い時代の武士や浪人やバクチ打ちや股旅者や鳥追い女などであるが、彼らの行動も心理も、彼らのせりふも、またそれを解釈し描写する作者の態度も、まったく現代化されている」
岩崎昶「日本現代史大系/映画史」

<再び戦場へ>
 「人情紙風船」を撮った後、彼は再び戦場に呼び戻されます。激戦の続く中国北部の戦場で彼は一年にわたり戦闘に参加。しかし、戦地で急性の腸炎にかかり、野戦病院に入院。体力のない彼の体にもう回復する力はなく、1938年9月17日、日本に戻ることなく、中国で息を引き取りました。
 まだ20代という若さで、まるで50代の監督作品のようにペシミズムな世界観をもつ映画を撮っていた彼は、自分の寿命が限られていることを常に意識していたのでしょう。80代まで普通に生きる現代人にとって、30代まで生きられる保障のなかった時代に生きた若者たちがもつ感覚を想像することは困難です。それでも、彼がもし戦場から奇跡的に帰還していたとしたら、いったいどんな映画を撮っただろうか?つい想像してしまいます。「刑事モノ」、「戦争映画」、「文芸ドラマ」・・・。
 彼が戦地から送った手紙には遺作となった「人情紙風船」についての有名な一節が記されていました。

「これが遺作ではチトサビシイ。負け惜しみにあらず」
 彼にはもっともっと撮りたい映画があったはずです。さぞや悔しかったことでしょう。

20世紀邦画劇場へ   トップページへ