時代を駆け抜けた昭和歌謡作家、波乱の人生


- 安井かずみ Kazumi Yasui -
<昭和歌謡を象徴するカリスマ>
 昭和歌謡を代表する作詞家である安井かずみは、1960年代当時、日本人としていち早くイヴ・サンローランのファッションを着こなした女性でもありました。それどころか、イヴ・サンローランと個人的に知り合いでもあったので、もしかすると彼の有名なマラケシュの別荘にも行ったことがあるかもしれません。(ミック・ジャガーに会っていても不思議ないかも・・・)
 サンローランが薬物に依存するようになった頃、彼女もまた一度だけ大麻の不法所持で逮捕されたことがあるようですから、まさに60年代に最先端を生きた女性だったといえます。(ミュージカル「ヘアー」の出演者たちと一緒につかまったようです)その後、彼女は加藤和彦と結婚し、バブル時代の理想の夫婦像を演じ、時代の先を歩み続けます。その人生は病によっていち早く終わりを迎えてしまいますが、それはまるで時代の変化に合わせるようでもありました。日本のポップスを語る時、彼女の存在は実に象徴的な存在です。昭和歌謡を象徴するカリスマ、安井かずみを特集します。

<最初の戦後世代>
 安井かずみが生まれたのは、1939年1月2日ですから、戦中生まれということになります。しかし、資産家の家系でガス会社の技術者として働く父親の元、横浜の街で育った彼女は戦後の経済的苦労をほとんど知らないため、最初の戦後世代と呼ぶことができそうです。
 中高とミッション系の名門女子校フェリス女学院に通いながら、彼女はお嬢様として様々な教養を身につけて行きました。(茶道、華道、ヴァイオリン、ピアノ、バレエ、日舞、フランス語、英語、油絵など)そんな中で美術の世界に憧れるようになった彼女は美術大学を目指しますが不合格となり、両親の薦めで私立の文化学院美術科に入学します。そして、学校に通うようになった彼女は、その帰り道にある店に寄るようになります。それが、伝説のレストラン「キャンティ」でした。その店での出会いによって、彼女は様々な才能を発揮するようになってゆきます。

<伝説のレストラン「キャンティ」>
 1960年代、日本の文化・芸術の最先端をゆくアーティストたちが集まる場所として有名だったイタリアン・レストラン「キャンティ」は資産家で彫刻家でもあった川添梶子が六本木にオープンさせた店でした。(彼女の祖父は明治維新で活躍した後藤象二郎!)上流階級だけでなく芸術家にも顔が広い彼女の店には、様々な階層、年代の人々が集まっていました。
 黛敏郎、今井俊満(画家)、村田豊(建築家)、三島由紀夫、川端康成、黒澤明岡本太郎小澤征爾らの大御所たち。
 日野皓正、村井邦彦、沢田研二、ムッシュかまやつ、コシノ・ジュンコ、加賀まりこ、内田裕也、伊丹十三から村上龍、松任谷由美などの若手。
 イヴ・サンローラン、サルバドール・ダリ、フランク・シナトラ、ピエール・カルダン、シャーリー・マクレーン、マーロン・ブランドなど海外の大物たち。
 これだけの人々が、集まる店は現代はもうありえないでしょう。それだけ、オーナーは多くの人々に信頼されていたし、カリスマ的な魅力もあったのでしょう。
 ちなみに「キャンティ」は2階にあり、1階も同じく彼女が経営する店で、ヨーロッパからの輸入雑貨を販売。さらに彼女がプロデュース&デザインするオートクチュールのブティックにもなっていました。(彼女は当時一大ブームとなっていたグループ・サウンズの衣装を数多くデザインしたことでも知られています)
 店全体が日本最先端のライフスタイル提案型のショップだったこの店に、安井かずみは同世代の友人であるコシノ・ジュンコや加賀まりこらと入りびたり、それぞれのジャンルにおける最高峰の人々と付き合うようになって行きました。当時、彼女のように六本木に通う若者たちのことは「六本木族」と呼ばれていました。

「実に私にとってキャンティーは素晴らしい駆け込み寺的存在であった。キャンティーに行けばいつも楽しかったから。いつもグルメと芸術とヨーロッパがあったから、いつも仲間がいたから・・・私はオレンジ色のロータス・エランをぶっ飛ばして、人生は何も恐くなかったが、ふとよぎる虚しさと孤独は常に友だちだった」
安井かずみ「30歳で生まれ変わる本」より

<作詞家としてのスタート>
 彼女がある日、ラフマニノフの楽譜を買うために入った音楽出版社で、何人かの男たちがアメリカン・ポップスのヒット曲の訳詞をしていました。英語、フランス語に堪能だった彼女は、そこで翻訳のためのアイデアを口にしました。「ルイジアナ・ママ」や「可愛いベイビー」などの訳詞で知られ、和訳ポップスの代表的訳詞家だった漣健児(のちのシンコー・ミュージック社長草野昌一)は、彼女の訳詞が気に入り、アルバイトで訳詞をしないかと彼女に声をかけました。彼らには翻訳しなければならない曲があまりに多かったのです。こうして、彼女にとって最初の仕事となったのは、坂本九が歌って大ヒットすることになるエルヴィス・プレスリーのヒット曲「GIブルース」の日本語版が誕生しました。
(彼女が訳詞した主な曲としては、「花はどこへ行った」、「ヘイ・ポーラ」、「レモンのキッス」、「アイドルを探せ」、「ドナドナ」・・・)
 こうして21歳で訳詞家としての仕事を始めた彼女に次なるチャンスが巡ってきます。彼女の訳詞のセンスの良さに気付いたNHK「きょうのうた」のディレクター林叡作が、番組で使う曲の作詞を依頼。こうして、1964年彼女にとって初の作詞曲「おんなのこだもん」が誕生することになり、中尾ミエが歌いヒットすることになりました。(この曲の作詞の際、彼女はペンネーム「みナみカズみ」を使用していました)
 こうして作詞家として仕事を始めた彼女は、キャンティで親しくなった渡辺美佐を通じて、渡辺音楽出版にマネージメントを任せ、渡辺プロ所属の歌手を中心に詞を書いて行くようになり、作詞家としての量産体制に入ることになります。伊東ゆかり「歌をおしえて」、ザ・ピーナッツ「キャンディー・ムーン」、園まり「何も云わないで」などが大ヒットします。

「私にとって、作詞家は、休日、祭日、日曜日なし、一日24時間、1年365日営業なのだ。だから自分では、本業は人生、その副業(副産物)が作詞・・・なんて思ったりする。・・・」
安井かずみ「私のなかの愛」

 1965年、伊東ゆかりの「おしゃべりな真珠」が第7回日本レコード大賞・作詞賞を受賞し、彼女が一気に大物作詞家の仲間入りを果たすことになります。

「おしゃべりな真珠」伊藤ゆかり
明日の悲しみを知らない
あなた おしゃべりな真珠
ほほえみ悲しみ夢をみる
私はおしゃべりな真珠
ひとりひとりが愛をみつけて
星をかぞえたとき 大人になる
あゝはじめて生きることがわかる

 本格的に働き始め多額の収入を得られるようになった彼女は、自らの理想とするライフスタイルを思う存分追求し始めます。それは例えば、ファッションの基本をフランスのファッション誌「VOGUE」に習って着こなすことだったり、料理をアメリカのタイムライフ社の雑誌から学んだりすることでしたが、それ以上に女性としての生き様をフランソワーズ・サガン(フランスの作家)やボーヴォワール、ジェーン・フォンダから学ぶことでした。そして、そんな生活をしている時期に彼女は最初の夫となる人物ジョージと出会います。

<最初の結婚・離婚>
 安井かずみとジョージこと新田信一が出会ったのは、川添梶子主催のピエール・カルダン歓迎パーティの会場でした。建築美術が専門の青年実業家で家具や美術品の輸入業を営む新田と安井はお似合いのカップルでした。新田の父親は台湾人で、彼をアメリカン・スクールに入学させ国際人として育てており、国際経験も当時の日本人としては異色の存在でした。
 1966年10月14日、二人はイタリアで当地の身元引受人だった画家バルテュス夫妻立会いのもと、ローマのヴィラ・メディチで結婚式を挙げました。その後、二人は2か月かけてヨーロッパを旅して回ります。帰国後は、再び彼女は作詞家として活躍。当時いよいよ大ブームになろうとしていたグループ・サウンズの作詞を担当することで大忙しの日々となります。
 そのために彼女の交際範囲は広がり、夜もGSのメンバーらと過ごす日が増えたため、家を空けてばかりになり、真面目な新田との関係が危うくなってしまいます。
 1968年、二人は夫婦生活をやり直そうとすべてを捨ててニューヨークに移住します。アクセサリーのデザインと製作、販売により収入を得ますが、先行きの不安とアメリカでの孤独な生活に彼女は不満を持つようになります。日本の友人たちもそんな彼女の暮らしを心配し、川添梶子がフランスに来るように誘います。
 1969年、安井はパリにしばらく滞在した後、一人日本に帰国し、新田との離婚を決意しました。
 安井と離婚した新田は、その後、アメリカに残ると映画製作に興味をもつようになります。当時は、自主製作のドキュメンタリー作家が活躍していて、映画製作について学んだ後、自らカメラを持ってドキュメンタリー映画を撮り始めます。カメラを持った彼は、その後あの伝説のコンサート「ウッドストック・コンサート」にも出かけ、そこでドキュメンタリー映画を撮影。アングラ映画の製作会社「ニュー・リアリズム」を立ち上げています。

<カリスマ作詞家としての活躍>
 安井は一人帰国しますが、離婚し、まったく収入もない彼女は仕事をしなければなりませんでした。そんな彼女を救ったのが、ソロデビューしようとしていた元タイガースの沢田研二でした。彼は自分のソロ・アルバム「JULIE」(1969年)の歌詞をすべて彼女に依頼。そのおかげで彼女は多額の収入を得ることができたのでした。その他にも、彼女の友人たちの協力により、彼女は生涯唯一となる歌手としてのアルバムを発表することにもなりました。
アルバム「ZUZU」(1970年)
収録されている曲は、もちろんすべて彼女の作詞によるものですが、作曲者はすべて彼女の仲間である異なる作曲家の作品です。
「わるいくせ」村井邦彦、「過ぎゆく日々」加瀬邦彦、「その時では遅すぎる」マモル・マヌー、「見知らぬ人」西郷輝彦、「愛の時」鈴木邦彦、「プール・コワ」かまやつひろし
「あたしには何もない」平尾昌晃、「ビアフラの戦い」沢田研二、「今日までのこと」なかにしれい、「追憶のスペイン」布施明、「九月の終わり」石坂浩二、「風の方向」日野皓正

「危険なふたり」沢田研二(1973年)加瀬邦彦(作曲)
今日まで二人は 恋という名の
旅をしていたと 言えるあなたは
年上の女 美しすぎる
アアアア それでも愛しているのに
何気なさそうに 別れましょうと
あなたは言うけど 心の底に
涙色した ふたりの想い出
アアアア 無理して消そうとしている
(この曲以外にも、彼女は「胸いっぱいの悲しみ」、「恋は邪魔もの」、「追憶」などの作詞を担当しています)

「何をしても、何か少しずつ変だった。どうしても何か満たされなかった。それをなしたら、そこに行ったら、それを読んだら、見たら、それを買ったら、それを着たら、その人と恋をしたら、満たされるだろうと思ったことは即実行した。もちろん金に糸目はつけないつもりだった。私は狂気の沙汰的に仕事をしていたので、その分だけ収入もあった。・・・」
安井かずみ「女は今、華麗に生きたい」

「わたしの城下町」小柳ルミ子(1971年)平尾昌晃(作曲)
格子戸をくぐり抜け
見あげる夕焼けの空に
だれが歌うのか子守唄
わたしの城下町
好きだともいえずに歩く
川のほとり
往きかう人に なぜか目をふせながら
心は燃えてゆく
(この歌詞は、いっしょに出かけようとしていた加賀まり子の目の前で安井が20分で書き上げてしまった作品だと言います)

「・・・彼女は小柳ルミ子さんの曲を作ったりしていたけれど、それだけでは飽き足らずに、日本でもイギリスでもアメリカでもどんどん出てくるアーティストにタッチしていたがった。それによって延命しようとかじゃなくて、ただそっちのほうが面白いからってね。要するに個人の趣味だよね。
 この業界って成功すればするほど、自分のステータスをキープしょうとして人の話しを聞かなくなって古くさくなっていくのが常だけど、僕らは体力的にもインテリジェンスでもなんかムーブメントに触っていたいというタイプだったのね」

かまやつひろし

「経験」辺見マリ(1970年)村井邦夫(作曲)
やめて 愛しているなら やめて くちづけするのは やめて このまま帰して
あなたは わるい人ね
わかってても あなたと逢うと
いやと言えない ダメなあたしね
だから今日まで だから今日こそ
きらいにさせて! 離れさせて

「赤い風船」浅田美代子(1973年)筒美京平(作曲)
あの娘はどこの娘 こんな夕暮れ
しっかり握りしめた 赤い風船よ
なぜだかこの手を するりとぬけた
小さな夢がしぼむ どこか遠い空
こんな時 誰かがほら
もうじきあのあの人が来てくれる
きっとまた 小さな夢をもって

「草原の輝き」アグネス・チャン(1973年)平尾昌晃(作曲)
居眠りしたのね いつか 小川のせせらぎきいて
レンゲの花を まくらに 今 目がさめた
恋しい気持ちが 夢が 逢わせてくれた あの人
君は元気かと 聞いた 手を振りながら
今 涙をかくして風の中 ひとりゆけば はるかな
私の好きな 草原

「よろしく哀愁」郷ひろみ(1974年)筒美京平(作曲)
もっと素直に僕の 愛を信じて欲しい
一緒に住みたいよ できるものならば
誰か君にやきもち そして疑うなんて
君だけに本当の心みせてきた
会えない時間が愛 育てるのさ
目をつぶれば、君がいる
友だちと恋人の境を決めた以上に
もう泣くのも平気 よろしく哀愁

 その他、「激しい恋」西城秀樹(1974年)、「小さな恋」天地真理(1972年)
 彼女は次々にヒット曲を生み出してゆきますが。、どこか心の中にぽっかりと穴が開いていたようです。そして、その穴を埋めようとするかのように、多くの男性と付き合っていたようです。中には、そんな不満をぶつけられた相手もいたようです。

「あいつ、何度か、『私・・・。今、ガス管くわえたの。もう死ぬから来て』と、夜中に電話をかけてきました。その度に、俺は川口アパートに飛んでいきました」
安井の恋人だった作家A

<再び運命的な出会い>
 1975年、彼女は再び運命的な出会いをします。12月23日彼女にとって6冊目となるエッセイ集「TOKYO人形」の出版記念パーティーで彼女は加藤和彦と出会い、すぐに恋に落ちます。
 1976年の加藤初のソロ・アルバム「それから先のことは・・・」で彼女はずべての作詞を担当し、ここから彼女は他の歌手の作詞をことわるようになり、主婦業と加藤作品での作詞のみを行う新たな人生をスタートさせます。この決断に周囲はとまどい、人間関係、友人関係がここで大きく変化することになりました。
 1977年、二人は渋谷の本多記念教会で結婚式を挙げます。こうして、仕事を夕方には終えると、夕食用に着替えて二人で毎晩、正装して食事を共にする生活が、始まりました。
 二人の結婚生活は、最先端をゆく国際的日本人カップルによる新たなライフ・スタイルの提案として多くの雑誌やテレビなどで取り上げられることになりました。それはある意味「バブル時代」が生んだライフ・スタイルだったのかもしれません。当時、多くの女性たちがユーミンのライフスタイルを目指し、その先の理想には安井かずみの結婚生活を目標にしていました。(加藤和彦は、背が高くイケメンで料理もできて高収入で才能もあるまさに理想的な男性だったといえます)

「不思議なピーチパイ」竹内まりや(1980年)加藤和彦(作曲)
思いがけない Good timing
現れた人は Good looking
巻き込まれそな 今度こそは
それならそれで I'm ready for love
ふりそそぐ陽ざしも Wow wow wow Good timng
恋は初めてじゃないけれども
恋はその度ちがう わたしをみせてくれる
不思議な不思議なピーチパイ

「私たち夫婦のかすがいは音楽です」
安井かずみ「婦人公論」(1981年1月号)

「結婚とか恋愛があたくしの人生でした。これからもそうです。人生をしているその産物が作詞となり、エッセイとなるのですから、一挙両得です」
安井かずみ

 ただし、その結婚が本当に幸福なものだったのか?そこに疑問をもつ人もいたようです。彼女と共に青春時代を歩んできた友人のコシノ・ジュンコや加賀まり子は、結婚により家にこもってしまった彼女の変化に不満を覚えていました。さらにフォーク時代から加藤との付き合いがあった吉田拓郎は、こんなふうに語っています。

「・・・家はまるでホテルで、まったく生活感のない空間でした。普通、夫婦で十年近くも暮らせばもうちょっと漂ってくるものがあるけれど、それがまるでない。もっと言えば、あの六本木の家に暮らしなんて存在していなかった。人間は普通、あんなところに長年いたら疲れてしまいますよ。そんなものやるわけないはずの加藤がZUZU(安井)と一緒にテニスやゴルフをやっていたのも、僕には、関係を維持するために必死になって共通の話題を作っているようにしか見えませんでした」
「彼らが世の中に夫婦としての一つのスタイルを提示しているのはわかるんだけど、僕の知っている二人はもっとドロ臭くて不細工です。僕は中途半端にアメリカかぶれしているし、中途半端に日本人が好きだから、あんな生活は肩が凝るだけ。メディアに相手にされなくなったらどうするの?と言いたくなったし、危うい綱渡りをしているようにしか見えない生活は破綻しているとしか思えませんでした。・・」

吉田拓郎

「だいじょうぶマイ・フレンド」広田礼央奈(1983年)加藤和彦(作曲)
目を閉じてごらん 愛が見えてくる
遠く近くに あなたをとりまく
優しいハーモニー 感じたら目を開けて見て!
だいじょうぶマイ・フレンド
たいじょうぶマイ・フレンド
あなたを愛している人がいる

 結婚生活は夫婦本人以外にはなかなかそlの本質が見えてこないものです。それでも彼女のことを最も良く知っていたはずの妹もまた姉の夫婦生活についてこう語っています。

「姉は本来優しい人なのですが、酔うと身内に対して攻撃的になりました。きっといろんなプレッシャーがあり、お酒を飲むと我慢していたものが吹き出したんでしょう。私も母もやられて、何度も泣かされました。だから24時間一緒にいる人は大変だったと思う。そういうことがわかっているので、母は加藤さんには心から感謝していました。・・・」

<早すぎる死>
 理想の夫婦生活は、二人が老いるまで続きませんでした。1992年ごろ、身体の不調を訴えた彼女が病院で検査を受けると、悪性の肺がんであることが発見され、余命は1年もないと宣告されたのです。当時、加藤は彼女に末期がんであることを告げない道を選択。希望をもったまま余命を安らかに生きてもらおうと考えたようです。
 それでも彼女は自らの死を予感したのか、夫とともに久しぶりにキリスト教の教会に通うようになり、洗礼も受けています。けっして「死」に幸福な死などないと思いますが、彼女にとって、それから先の時代は幸福な時代とはなりえなかった気がします。
 最後の一年、彼は仕事をすべてやめ、愛妻のためにすべてを捧げました。当時、彼女は保険に入っていなかったらしく、医療費はかなりの高額になったようですが、夫は彼女のために最高の医療環境を用意しました。しかし、この負担が後に、夫の経済状況を追いつめる原因になったともいわれています。

「僕は何度も何度も僕の部屋に来てかずみさんのことを相談し、献身的に看病した彼の姿を一年間見てきた。彼は、前夜式で『寂しいけれど悲しくはない』と言ったでしょう。妻のためにすべてを捧げたからこそ出る言葉です。人間には、自由に生きたいとか人を愛したいとかさまざまな欲望があります。和彦さんにもあったはず。彼はすべてをやり尽くしたんだから、いいじゃない、誰を愛しても」
加藤治文(安井かずみの主治医)

 彼女は「子供」を持つことはありませんでした。
 歌謡界の状況は急激に変化していて、歌謡界をリードした作詞家の時代は終わりを迎えていました。
 音楽産業自体がソフト販売の急激な落ち込みにより「冬の時代」を迎えようとしていました。
 それ以上に彼女にとっては、自らの「老い」の問題が厳しかったかもしれません。姉さん女房であるために、自分が先に老いて行くことを非常に恐れていたようです。
 時代は、「バブル」の終焉を迎えていました。こうした変化は少しずつ彼女の心を弱らせていたかもしれません。
 そんな時代の変化を彼女はどう受け止めたのか?しかし、その機会は彼女には与えられませんでした。
 1994年3月17日、一年に及ぶ闘病生活の後、彼女は約4000曲の詞と33冊のエッセイ集を残しこの世を去りました。

 彼女の死の後、1995年に夫の加藤は一年後にオペラ歌手中丸三千繪と再婚します。この時、彼は安井かずみに関わる遺品などをすべて処分してしまったといいます。ところが、夫婦生活は2年で実質的に破綻。2000年には正式に離婚。
 2009年10月16日、加藤は軽井沢で自殺します。

「かずみさんの具合は段々悪くなっていきましたが、教会に来られたときは、嬉々として、明るかった。とてもお洒落な人でしたけれど、私が見た中で一番素敵だったのは、洗礼を受けた日のかずみさんです。『今日は、神様の前に出るからこれを着てきたの』とシンプルな黒いワンピースを着ておられて、それはそれは可愛かった。今まで見たこともないような感じで、はにかみながら『神様を信じます』と誓うかずみさんは、素直で、まるで生まれたまんまの嬰児のようでした」
外崎弘子(親しかった安井の友人の娘)

「ラヴ・ラヴ・ラヴ」ザ・タイガース(1969年)村井邦彦(作曲)
時はあまりにも はやく過ぎゆく
喜びも悲しみも すべてつかのま
時はあまりにも はやく過ぎゆく
ただひとつ変わらない 愛の世界
ラヴ・ラヴ・ラヴ 愛ある限り
ラヴ・ラヴ・ラヴ 愛こそすべて

<参考>
「安井かずみがいた時代」
 2013年
(著)島崎今日子
集英社