- 矢沢永吉 Eikichi Yazawa -

<矢沢永吉との出会い>
 正直言って僕は、矢沢永吉を「永ちゃん」と呼ぶほどのファンだったわけではありません。でも、その分かなり客観的に矢沢流ロックというものを聴いてきたかもしれません。
 出会いは、やっぱり「ファンキー・モンキー・ベイビー」でした。しかし、それは矢沢永吉による歌ではなく高校時代の学園祭におけるアマチュア・バンドの演奏が最初だったはずです。そして、その演奏が妙に印象に残りました。
 時は1970年代の後半、高校のアマチュア・バンドの間では、ブリティッシュ・ロック系のコピー・バンドが主流を占めていました。特に、北海道ではなぜかディープ・パープルが人気ナンバー1で、他のバンドを大きく引き離していました。そんな中、日本のロックはまだまだ地方までは浸透しておらず、キャロルは唯一気を吐いていたと言えるでしょう。(歌詞の話題性でダウンタウン・ブギ・ウギ・バンドも人気がありましたが、キャロルの人気とはまた別物でした)そして、このキャロルのコピー・バンドは、文句なしに学園祭の花形バンドのひとつでした。(もちろん彼らがなかなか上手かったせいまあるのですが)
「日本のロックもけっこうやるもんじゃないの」そんなわけで、生意気なロック小僧だった僕に、日本のロックを最初に意識させてくれたのが、矢沢永吉率いるキャロルだったのです。

<キャロルとビートルズ>(2014年3月追記)
 矢沢永吉は、1949年広島に生まれました。ロック・ミュージシャンに憧れていた彼は、1968年横浜にやってきて音楽活動を始め、1972年にキャロルを結成しました。彼らの本拠地は、東京でもなく、横浜でもなく川崎でした。そこがまたキャロルらしかったと言えそうです。(実は、私かつて川崎市民でした)
 メンバーは、矢沢永吉(Bass,Vo)、ジョニー大倉(Gui,Vo)、内海利勝(Gui.)、相原誠(Dr.すぐに岡崎ユウに変わった)の四人だった。
 あくまでもロックン・ロールにこだわる彼らがめざしたサウンドは、1960年代前半、デビューしたてのビートルズだったようです。(デビュー前、ドイツで武者修行をしていた当時のビートルズというべきかもしれません)2分半のロックン・ロール・ナンバーと不良っぽい独特のファッション、それにジョニー大倉による英語をおりまぜた独特の歌詞は、日本のロックに新しいスタイルを誕生させた。(この流れはB’sなどへと受け継がれていると言えるでしょう)
 そして、彼らの人気が爆発したきっかけがヤング向けのテレビ番組(フジTVの「リブ・ヤング」)だったというのもまた、J−ポップの未来を先取りしていたと言えるかもしれません。

 当時はグラムロック全盛じゃない。それでTVの「リブ・ヤング」に出ることになって、バンド対決みたいな企画があったんだよ。その時に、TV初出演っていう新人バンドが挨拶に来たんだけど、音出したら向こうは完璧なの。もう、完全に負けてる。こっちは全員「エッ!」って感じで鳥肌立ったよねえ。
 それが、キャロルのデビューでさあ、挨拶に来た腰の低い兄ちゃんは、今、思えば、矢沢永吉だったんだ。

近田春夫(当時、内田裕也のバンドでキーボードを担当)雑誌「BURST」より

「ひらきなおりと、女々しさに塗りつぶされた、日本のフォークの連中の”先進国的な悟り”よりも、力と金と名誉に執着するキャロルの”後進国的な煩悩”の方に共感を感じる人は少なくないと思う。」
和田昌樹「ロック界に飛び出した4人の若者たち」より

<キャロル、デビューからブレイクへ>(2014年3月追記)
 彼らは、1972年12月25日シングル「ルイジアンナ/最後の恋人」でデビューした彼らは、翌年1973年デビュー・アルバム「ルイジアンナ」を発表します。プロデューサーは、日本のロックの草分け的存在、サムライを率いていた元ロカビリー歌手のミッキー・カーティス。彼は偶然、キャロルが出演したテレビの生放送「リブ・ヤング」を見ていて、その凄さに衝撃を受けました。すぐに彼はテレビ局に電話をかけると、まだ番組が放送中だったにも関わらず、矢沢を電話口に呼び出し、自分のレーベルとの契約を申し入れたのでした。当然、彼は自らキャロルのプロデュースを担当します。
 彼はキャロルにオリジナルとロックン・ロールのカバーを半分ずつ録音させ、これまたビートルズやローリング・ストーンズのデビュー当時を思わせるアルバムを作り上げました。
 しかし、キャロルの本当の魅力が発揮されたのは、ファーストの後すぐに発売されたセカンド・アルバム「ファンキー・モンキー・ベイビー」でした。このアルバムは、前作と違い全曲オリジナル(矢沢永吉作曲、ジョニー大倉作詞)で固められ、荒々しい音づくりも含めてキャロルらしさを100%前面に押し出したつくりになっていました。こうなると、キャロルの勢いは誰にも止められず、次々にヒットを飛ばし始めます。「ライブ・イン”リブ・ヤング”」(1973年)、「ファースト」(1974年)、「グッバイ・キャロル」(1975年)。あっという間の3年間でした。

「オレたち、はっきりいって、カネもほしい、名誉もほしい。十メートル先のタバコ屋に行くにもロールスロイスに乗ってみたい。でもそれが素直だと思うのよ。それをみんなエエカッコして、カネはいらない、自分の音を追及すればいいんだなんて、オレはへどがでるね。だから有名になるためには、マスコミだってどんどん利用するよ。
 ただキャロルは、犬みたいに尾っぽふるのは嫌なわけよ。ナメられるのだけは我慢できない。」

矢沢永吉

「ただ、僕は文字文化の最後の世代でしょう。”斜陽族”じゃないけれど下降志向の最後の青年なんですよ。だから、キャーキャー言われている自分と一人になった自分との振幅がつらくって、ノイローゼ気味になったり血を吐いたこともよくありましたね。」
ジョニー大倉
 
 こういう矢沢永吉の単純さとジョニー大倉の複雑さが重なり合っていたからこそ、その二人の気質の密着と反発の強さによって、キャロルはスーパーグループと成り得たともいえるわけです。

<キャロル解散>
 しかし、矢沢自身も語っているように、これだけテンションの高い音楽は、そういつまでも生み出せるものではありませんでした。4人の編成でできうる限りのことをやると、キャロルは1975年、伝説的な解散コンサートを行い、その活動をあっさりと終えます。

<矢沢ソロ活動へ>
 新たなソロ活動を始めた矢沢が目指す方向性に大きなヒントを与えたのは、意外なことにサディスティック・ミカ・バンドでした。クリス・トーマスのプロデュースの得て「黒船」を発表し、世界に飛び出していったミカ・バンドの新しい音づくりに、当時ツアー仲間だったキャロルの矢沢は、大きな衝撃を受けたていたといいます。
 元々曲づくりには自身をもっていた矢沢は、より大人向けのロックを目指し、自らプロデュースを行いながら新しいスタイルを模索し始めます。キャロルにおいて英語と日本語を見事に融合させていたジョニー大倉に代わる存在として、矢沢は作詞を松本隆西岡恭蔵らに依頼、詩の世界をぐっと大人向けに変えました。そのうえ、ライブにおいては、バック・バンドとして、すでに解散していたサディスティック・ミカ・バンドのメンバーたち、高中正義後藤次利らのサディスティックスらを配するなど、新しい挑戦を続けます。
 ソロ・デビュー・アルバムは、1975年あえてアメリカでの録音を行った「I Love You OK」でした。そして、1977年には日本人のミュージシャンとしては初めて日本武道館でライブを行い、1978年にはシングル「時間よ止まれ」が大ヒット、名実ともに日本のロックにおけるナンバー1スターとなりました。

<「成りあがり」>
 しかし、彼がカリスマ的スターとして君臨するようになったのは、音楽活動によるものだけではありませんでした。それは大ベストセラーとなった彼の自伝エッセイ「成りあがり」によるところも大きかったでしょう。僕自身、「成りあがり」を読んで初めて「矢沢って、凄かったんだ!」と思った人間です。(音楽を聴いただけで凄いと思えなかった自分が恥ずかしいです)実際、あの本によって矢沢に対する社会の見方が大きく変わったことは間違いないでしょう。考えてみると今やどのアーティストも自伝的なエッセイを発表していますが、この流れを作ったのは間違いなく「成りあがり」でした。そして、この作品によって、ミュージシャン矢沢は、そのライフ・スタイル自体が最高のパフォーマンスであることを証明してみせ、こうして作られたイメージが彼をよりビッグなスターへと押し上げ、役者としての成功やあの缶コーヒーのCMの大ヒットを生み出したとも言えるでしょう。(僕もよくあの矢沢独特のしゃべり方をマネしていたものです)

<新しもの好き>
 彼は自分でも言っているように、とにかく新しもの好きで、飽きっぽいようです。しかし、だからこそ彼は誰よりも早く日本武道館でコンサートを行い、スタジアム(後楽園球場)でのコンサートをも実現させました。そして、LAでのアルバム録音を行っただけでなく、あのドゥービー・ブラザースをバックに起用したり、アルバムの全米での発売をも実現させてしまいました。(1981年の”YAZAWA”から)
 こうして、次から次へとチャレンジを続けたからこそ、矢沢は常にビッグでいられたし、その「成りあがり」根性こそが、矢沢の魅力だったのです。
 60年代から活動してきたロック・アーティストたちの多くは、もう第一線にはいません。(フォーク系のアーティストたちは未だに活躍している人が多いのですが・・・)そんな中、矢沢はひとり気をはいていると言えるでしょう。彼に匹敵するのは、CHARチャーぐらいではないでしょうか?まだまだロックがビジネスとして成り立っていなかった1970年代、彼のようにトップ・アーティストとして君臨し続けて行くためには、常に新しいことにチャレンジし続けなければならなかったのでしょう。
 そうでなければ、プロデューサーやライターとして裏方の道を選ぶか(はっぴいえんどのメンバーは、その典型)、海外にその活躍の場を見出すか(久保田麻琴クリエイションサディスティック・ミカ・バンドなど)歌謡曲かフォーク路線、それとも俳優として生き残るしか道はなかったのです。(沢田研二萩原健一など、そう考えると、フォークからロックに転向して活躍し続けたカルメン・マキは凄い人だ)
 矢沢永吉の偉大さは「成りあがった」ことより、ビッグであり続けたことにあったのかもしれません。

<締めのお言葉>
「一世紀前には、マッターホルンは登頂不能とみなされていたが、今では、登山家たちは日曜の遠足として同山に登っている。・・・自分が何をしたいと欲しているのかを明確に把握すれば、人間は不死身になるかのように見える。人間の課題は、決して意志力の問題であったことはなく、想像力の問題 - すなわち、何に自分の意志を向けるべきかを知ること - であったのだ」

コリン・ウィルソン著「オカルト」より

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