- イエロー・マジック・オーケストラ YMO -

<YMOという存在>
 YMOは、いかなる存在だったのか?
 もちろん、テクノ・ポップというコンピューターによるポップ・ミュージックの一ジャンルを築いたことが最大の功績でしょう。しかし、その影響は後のテクノやハウス系アーティストたちに重要なインスピレーションを与えたことも見逃せません。さらに彼らは「音楽」だけでなく、「ファッション」や「映像」、「美術」「広告」「お笑い」まで、幅広いジャンルに影響を与えることで「YMO文化」を形成し、それは未だに増殖を続けています。
 こうしたYMOイメージの巨大化は、いつしかメンバー個々の存在を危うく押しつぶすところでしたが、幸いにして3人は、それぞれ優れた能力と経験をもつ大人のアーティストでした。彼らは「散開」という形でバンドに決着をつけ、その後も順調に活躍を続けています。

<YMOの原点、細野晴臣>
 YMOの原点は、どうやら細野晴臣の音楽活動にあるようです。はっぴいえんど解散後、彼はすぐにソロ・アルバム「HOSONO HOUSE」(1973年)を発表しますが、売れ行きは今ひとつでした。その後、夕焼け楽団を率いてエスニックなサウンドを展開し始めていた久保田麻琴からの影響もあり、中国風、南太平洋風なゴッタ煮サウンド「ソイ・ソースミュージック」を目指します。
 こうして、第2弾ソロ・アルバム「トロピカル・ダンディ」(1975年)が生まれ、この時期を代表する傑作と呼ばれる「奉安洋行」(1976年)が続いて発表されました。しかし、残念なことにこれらのアルバムは、どれもヒットには至らず、彼はアルファ・レコードからのオファーに答えるかたちでプロデューサー業に手を染めるようになります。しだいに音楽ビジネスに興味をもち始めた彼は、ソロとしてはできなかったビジネス面の成功を目指した新しいユニットを企画します。それは、当時日本一のセッション・バンドとして活躍していた彼の所属するバンド、ティンパン・アレーのメンバー林立夫、佐藤博を加えたバンドに女性ボーカルを交えたものでした。
 しかし、二人はこの企画に参加できず、細野は坂本龍一と高橋幸宏に声をかけることになり、運命の4人がそろうことになったのです。

「ぼくがエキゾティックだと感じたのは、たとえば、ときおり日本のイメージがひどく歪んだかたちであらわれるハリウッド映画と、そこから発散される、ねじれた、シュールなモードでした・・・日本人は決して真のオリエンタリストにはなれません。これはぼくらが、西洋人のいう「極東」に囚われているからです。ぼく自身のオリエンタリズムは、回り道をして、ハリウッド的な視点をとうことによって得られた、想像上の視点といえるでしょう。ブレヒトがいっていた「他人の目を通して見る」を実践したわけです。」
細野晴臣(2012年追記)

<坂本龍一>
 坂本龍一は東京芸大音響研究所の出身で、フリー・ジャズを演奏したり、シンガーソング・ライター、リリィのサポート・バンドに参加。その後はティンパン・アレーの準メンバーとして細野と活動をともにしていました。

<高橋幸宏>
 高橋幸宏は、BUZZやGAROなど、フォーク系グループのバックでドラムをたたいた後、サディスティック・ミカ・バンドに参加。解散後は高中正義、後藤次利、今井裕とともにサディスティックスとして活動中でした。彼のクールなドラミングは、サディスティック・ミカ・バンド時代海外でも話題になり、多くのミュージシャンに影響を与えましたが、ソロ・ミュージシャンとしても、この後活躍することになります。

<エレクトリック・チャンキー・ディスコ>
 「マーティン・デニーの「ファイヤー・クラッカー」をコンピューターを使ってエレクトリック・チャンキー・ディスコ風にやろう。目標はアメリカで400万枚を売ることだ」
(マーティン・デニーは、ハワイで独自の南国風楽園風ゴージャス・サウンドを作り続けた異色の白人バンド・リーダーです)
 それはかつて、伝説のロック・バンド「はっぴいえんど」が、「バッファロー・スプリングフィールドを日本語で独自のロックとしてやろう」と目標をかかげたのと似ていました。
 しかし、今回はコンピューター・サウンドであり、そのターゲットはドナ・サマーの「アイ・フィール・ラブ」(ジョルジオ・モロダー作)やクラフト・ワークの「アウト・バーン」だったわけです。

<なぜコンピューター・サウンドなのか?>
 すでに細野はシンセサイザーを用いたサウンドを自らがプロデュースしたあがた森魚のアルバム「日本少年」で実験済みでしたが、どこまでコンピューターを用いるかについては、まだ考え中だったようです。おまけに坂本、高橋、そして細野の3人は当時の日本におけるセッション・ミュージシャンの最高峰に位置していました。それだけのミュージシャンががなぜその優れたテクニックを捨ててまでコンピューターに頼るのか?イエロー・マジック・オーケストラの結成とファースト・アルバムについて、多くの人がそんな疑問を感じたようです。
 しかし、それだけの優れたミュージシャンだったからこそ、コンピューターを用いることで、今までにないオリジナリティーを発揮することが可能だったのです。コンピューターによる音楽は、プログラムを完成した時点で、ミュージシャンの手を離れてしまいますが、このプログラムにこそ長年の経験と音楽的センスが生かされるのです。アドリブや小手先のテクニックでごまかすことはできないのです。
 彼らが目指していたのは、ある意味「グルーヴ」の理論的分析とその再現にあったといえます。そして、それがあって初めて、「ファンク・サウンド」の再現が可能になるわけです。それを見事にやってのけたのが、彼らだったわけです。

<YMOデビュー!>
 1978年、YMOはファースト・アルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」を発表しました。しかし、彼らが目指していたのは、元々世界市場でした。狙いどおり彼らの無国籍風ディスコ・サウンドは、海外からもオファーを得ることに成功します。特に当時A&Mの副社長にのし上がっていた凄腕のプロデューサーのトミー・リピューマはYMOがすぐに気に入り、すぐにアメリカでのデビューを約束しました。彼は元々AORやボサノヴァをい得意とするプロデューサーで、ジョアン・ジルベルトやマイケル・フランクス、マーク・アーモンドらを扱っていました。そんな彼の指示により、YMOのアルバムはアメリカ向けにリミックスされ一部、吉田美奈子のヴォーカルが加えられて発売されました。(アメリカ版は、テクノ・ポップというよりも、フュージョン・ポップの路線を狙っていたようです)
 デビュー・アルバムを発表した彼らは、さっそくツアーを開始、海外でも渡辺香津美、矢野顕子、松武秀樹を加えた豪華なメンバーでライブ・ツアーを行いました。

<テクノ・スタイルの誕生>
 ファースト・アルバムの録音中、彼らはテレビで小澤征爾が指揮する北京交響楽団のコンサート映像を目にしました。この時の強烈なイメージは、彼らに独特のファッション、独特の演奏スタイルを思いつかせました。それがモミアゲをカットした新しいヘアー・スタイル、「テクノ・カット」と人民服、それに無表情に楽器に向かい黙々と演奏するテクノならではのあの演奏スタイルだったのです。

<幻のメンバー横尾忠則>
 YMO結成の直前に細野はイラストレーターの横尾忠則と共同プロデュース・アルバム「コチンの月」(1978年)を発表しています。二人で旅したインドの体験を元に制作されたこのアルバムでの横尾の役割はスピリチュアル・アドバイザー的なものでしたが、そのパワーに感激した細野は横尾氏にYMOへの参加を依頼したということです。

<もうひとりのメンバー松武秀樹>
 幻のメンバーが横尾忠則なら、4番目のメンバーともいえる重要な存在がコンピューター・プログラミング担当の松武秀樹でした。彼もまた「コチンの月」で初めて細野と出会い、その後YMOにとってなくてはならない存在となります。
 アルバムの録音だけでなく、ステージ上でもコンピューターを用いて演奏を行った世界で最初のバンドがYMOでした。それだけに、どのメンバーよりもコンピューターのことを知り抜いていた松武の存在は、初期YMOになくてはならない存在でした。

<予定どおりのブレイク達成>
 1979年、いよいよ彼らにとってのブレイク作品「ソリッド・ステイト・サバイバー」が発売されました。このアルバムからは「テクノポリス」「ライディーン」が、シングルとして大ヒット。彼らの人気は、ロックのファン層を飛び越え、ポップ・アイドルとして中高生や小学生にまでその名を知られる存在になりました。あまりの人気にレコード会社は、すぐに新作の発表を依頼。まずはライブ・アルバム「公的抑圧 Public Pressure」(1980年)に続き、ミニ・アルバム「増殖」を発表します。
 この異色のミニ・アルバムは、小林克也と伊武雅刀のコンビニよる「スネークマン・ショー」のブラックなお笑いを曲間に挟み込んだ変則盤だったにも関わらず売れまくりました。YMOは、この時点で音楽というジャンルの枠を越え、ファッションや広告なども含めた巨大なテクノ文化現象の発信源として、何でも有りの存在となっていました。

<公的抑圧>
 元々ソロ・アルバムの売上不振を巻き返すためのプロジェクトとして、ヒットを目的にYMOを結成した細野にとってすら、自分たちの異常なまでの人気ぶりは重荷になっていました。まして、学究派タイプで真面目な坂本龍一にとって、その状況は耐え難いものでした。そのため彼は早くもバンドからの脱退を考えますが、アルファ・レコードは彼を引き留めるために交換条件を持ち出しました。それは彼にソロ・アルバムを自由に制作する機会を与えるというものでした。
 こうして、彼のソロ・アルバム「B-2 UNIT」(1980年)が生まれました。(当時一大ブームを起こしていたダブの第一人者デニス・ボーヴェルとXTCのアンディー・パートリッジが参加して、イギリスで録音されました)

<最高傑作誕生>
 1981年、YMOは世界ツアーを終えてニューアルバム「BGM」を発表します。しかし、このアルバムはそれまでのキャッチーなポップ・テクノ・アルバムとはかなり異なる内容でした。それは、その後世界各地のアンダーグラウンドから生まれてくるよりミニマルでよりダークな雰囲気をもつテクノにつながるものでした。このアルバムは、売上をがっくりと落としましたが、その方向性に自信をもった彼らは、すぐにその延長線上にあるアルバム「テクノデリック」(1981年)を発表します。
 このアルバムは、僕が思うにYMOの最高傑作です。「BGM」をさらに押し進めながらも、「体操」のようにポップな展開もあるかと思えば、「Epilogue」のようにスケールの大きな美しい曲もある完成度の高い作品に仕上がっています。

<ソロとしての活躍>
 YMOのメンバーそれぞれにとっても、ある意味この時期は一つのピークと言える時期でした。
 高橋は、ソロ・アルバム「ニュー・ロマンティック Neuromantic」を発表後、鈴木慶一とビートニクスを結成し、アルバム「出口主義」の制作に入っていました。
 坂本は、矢野顕子とともに加藤和彦の傑作ソロ・アルバム「ベル・エキセントリック」の録音に参加した後、エイドリアン・ブリューらとソロ・アルバム「左うでの夢」を録音しています。
 細野も、加藤和彦のアルバムに参加した後、バリやインドなどを旅しながらアイデアを蓄え、その後一転してイモ欽トリオの「ハイスクール・ララバイ」をプロデュースし大ヒットさせています。

<浮気な僕ら、散開す>
 アルバム「テクノデリック」によって、当時コンピューターを使ってできることをある程度やりつくしたと感じたメンバーは、1982年の10月までYMOとしての活動を休止します。そして、1983年ラスト・アルバムとなる「浮気な僕ら Naughty Boys」が発表されました。
 このアルバムは、シングル・ヒットしたCMタイアップ曲「君に胸キュン」に代表されるように3人が歌謡テクノとも呼べる音楽を楽しんで演じた作品集でした。それはメンバーたちがYMOとしての活動がすでに終わっていると感じたからこそできたお遊び感覚の仕事だったのかもしれません。
 1983年11月から12月にかけて、彼らは「散開」記念コンサート・ツアーを行い、その活動に終止符をうちました。

<再結集アルバム>
 1993年、彼らは一時的に再生し、アルバム「Technodon」を発表しています。このアルバムには、面白いことにミュージシャン以外のアーティストたちが数多く声で参加しています。
 ニュー・ロマンサー・ブームの火付け役でSF作家のウィリアム・ギブソン、ビート世代の神様の一人でもある作家のウィリアム・バロウズ、それに科学、宗教、イルカとの対話などの分野で斬新な発表をし続けたカルト学者、ジョン・C・リリィなど・・・さすがはYMOです。この時すでにYMOは、これらの人物と肩を並べる伝説的存在になっていたのかもしれません。

<ブームの仕掛け人、YMO>
 1980年代に僕は、YMOが写真雑誌の草分けで今は亡き「写楽」の創刊イベントでライブをやるというので見に行ったことがあります。これも、彼らが音楽だけでなく多くのジャンルとのコラヴォレーションを重視していた一例かもしれません。ただし、彼らとコマーシャリズムとの結びつきは、ちょっと鼻につくほどだったのも確かです。
 その日のライブでも、彼らの演奏を待てないファンがイベントの途中で紙ヒコーキを飛ばし始め、YMOのメンバーとやり合うという一幕もありました。あの時、会場の日本武道館を旋回していた何機もの紙ヒコーキは、実にきれいに飛んでいました。もしかして、あれも演出のひとつだったのかも?良くも悪くも、彼らが大衆に刺激を与える存在だったことだけは間違いないでしょう。

<締めのお言葉>
「人間はいまや、スペシャリストとしては、そっくりそのままコンピューターに取って代わられようとしているのである。そして、人間自身は、生来の総合的能力を回復し、活用し、楽しむようにならなければならない」

バックミンスター・フラー著 「宇宙船「地球号」」より

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