- 淀川長治 Nagaharu Yodogawa -

<映画の師、人生の師>
「・・・同じ世界にはいるんだけど、非常に客観的なところにいて、残酷なところも平気で見ていられるっていうような。映画評論の世界では、いちばんいいポジションにいた。評論のしかたでも、ほかの評論家が言ったら、なに言ってるのかってことになっちゃうところを、淀川さんが言うとなっとくさせてしまう。映画の世界でも、評論じたいが芸であるということをわからせてくれたと思うよ。・・・」
北野武(1997年淀川長治賞受賞時インタビューより)

 北野武がこう言っていることに加え、淀長さんの映画解説は映画を分析するのではなく、映画を彼流の表現によって上映していた。僕はそう思います。「淀川長治ラジオ名画劇場」(1973年〜)で彼が語ってくれた映画は、いつの間にか僕の頭の中に像を結び、見ていないはずの映画までもが僕の記憶に刻まれてしまいました。
 中学生になって近所の映画館で映画を見るようになるまで、僕にとっての映画とは淀長さんが登場するあの放送が終わった後にかかるあのエンディング・テーマを聞くたびに「ああ、終わっちゃった」と妙に物悲しい気分になったものです。彼の口癖だった生き方のモットー「苦労来い!」は、僕も心にずっと止めている言葉です。僕にとって、淀長さんは映画の師匠であると同時に人生の師匠でも合ったように思います。

<生い立ち>
 1909年4月9日、淀川長治は、神戸で生まれています。映画が大好きだった母親は、映画館でドンキホーテの活動写真「馬鹿大将」を見ている時に産気づいて彼を産んだという伝説もあります。そんな映画好きだった両親とともに1歳の頃から毎週映画館に通うようになった彼は、7歳の頃には一人で映画館に行くようになっていました。誰よりも映画通となっていた彼は神戸第三中学校に入学すると、全校鑑賞する映画の選定を任されるようになったそうです。
 誰よりも映画を見ることが好きだった彼は、学校を卒業すると映画に関する仕事として映画の配給会社に就職します。そして、23歳の時、彼はユナイテッド・アーティスツの大阪支社宣伝部に入社。映画の宣伝マンとして働き始めます。
 1936年3月6日、彼は船で来日した映画界のスーパースター、チャーリー・チャップリンの案内役を担当。その後、ユナイトの東京支社に転勤となりますが、太平洋戦争が始まってしまいます。そのため、支社は閉鎖となってしまい、彼は東宝に入社。さっそく黒沢明監督の「姿三四郎」の宣伝を担当します。
 1945年、戦争が終わると彼はCMPE(セントラル・モーション・ピクチャーズ・イクスチェンジ)に入社、その仕事と平行して1946年には雑誌「スクリーン」の創刊に関わり編集員の一人になります。
 1948年、CMPEを退社した彼は映画雑誌「映画之友」の編集長に就任し、本格的に映画評論の仕事に関わることになります。1950年には初の著書「映画散策」を出版。いよいよ映画評論家としての活動が始まります。
 1966年、57歳の時、テレビの映画番組「土曜洋画劇場」の解説を始めます。(後にこの番組は日曜日に移動。「日曜洋画劇場」となります)
 1973年、彼はラジオ番組「淀川長治 ラジオ名画劇場」の放送が始まります。
 生涯独身を通し、東京の全日空ホテルの34階に住み続けた彼にとって、映画の中の人生は、異なる世界を体験させてくれる貴重な存在でもありました。彼の映画に対する客観性は、そうしたしがらみのない生き方から生まれたともいえます。そんな彼の人生を多くの人は、寂しくて不幸なものと考えるかもしれません。

<独自の文章、独自の思想>
 淀長さんは話し方も独特でしたが、文章もまた実に特徴的でした。けっして読みやすくはないのですが、彼ならではのリズムがあり、美しさもあります。時に、それは評論というよりも詩のようにさえ感じられることがあります。

「映画は幸いを招く宝石、映画はそれとあわせて麻薬をのむような楽しみをあたえてくれる。映画の麻薬は、映像美術のドレスをつけてあなたを招く。コクトーしかり、映像詩人のマン・レイしかり。映画、そのタイトルから、そのタイトル文字からバレエを踊る。フィルム編集者は、バレエの振付師。かくて、そのタイトルから広がっていく”映画”が、マジック美術を輝かせるとき、わたしたちは世界一の幸福者となって、映画館の椅子にふんわりともぐりこむ。・・・」

 彼ならではのもうひとつ重要な視点。それは彼がたぶん同性愛者だったところからくるものです。彼はカミング・アウトなんていうはしたないことはしませんでした。
「あなた、わかるでしょ。そんなこと!」 そんな彼の言葉が聞こえてきそうです。
 彼が死に近づいた頃に書いた文章には、ゲイに関する映画についての記述がいっぱい出てきます。自らの死を近いと感じていた彼は、より正直に自らの嗜好(ゲイであること)を表に出すようになっていたようです。

「男がバレエを見に行くのは恥なのか。・・・
 なぜ歌舞伎を見ないのであろう。歌舞伎を見に行くと、ご婦人ばかりである。・・・男はどうして、なにを見ているのであろう。・・・一般の場合、あの野球場の熱気は男性を包み、ゴ、ショーギ、スポーツ、これらはまさしく男性の誇らしき楽しみながら、すべて勝負の世界である。勝つことは、負ける人を作るのである。しかし、そのようなことを申すと、アホウかと思われよう。しかし、勝つことが人生の誇りである一方、それがまたこわい、いやな場合もある。
 負ける人への思いやり、そんなものを考えていると勝負はできるわけはない。けれど、負ける人を作ることはつらい。これをめめしいと笑えばいい。けれど笑えなくもなる。」


 彼はあからさまなSEX描写を美しいとは思えませんでした。それはもちろん「男と女」のSEXだからというわけではなく「品性」の問題として許せなかったというべきでしょう。
「このごろは、恋が羽ばたきして逃げさる映画が多くなった。映画は、小説とちがって現実を目に見せる。だからといって、いい気になった映画を見るとゾッとする。このごろは男と女、このアダムとイブが、すっかりイチジクの葉を捨てた。映画がそれを見せる。ホテルに行くや、男はたちまちズボンを脱ぎ去り、女は全裸でベッドから目で招く。このようなことを実際にやりたいと思う人が、このシーンを見てヨダレをたらす。もう恋ぬきの次代。」

<映画に対する厳しい目>
 もちろんそうした映画の見方は、SEXの描写だけではなく、作品にこめられた思いや意図についての品性についてもいえることです。
 僕も嫌いなオリバー・ストーン監督の他人の気持ちを理解しようとも思わない悩める振りをしただけの正義の映画が、淀長さんもも大嫌いだったようです。彼の代表作「プラトゥーン」のラスト・シーンを見ていて、ベトナムの人々を馬鹿にしていると思わない人は、世界史をもう一度勉強し直すべきです。その他の映画でも、常に周りを見下したような彼の映画は、見ていて不快です。
 彼は、世界の巨匠スピルバーグについてもこう書いています。

「・・・ところが、そのあとに『シンドラーのリスト』(1993)。これが、この年のオスカー選択直前に出来上がって封切られた。まさに巧みに、オスカー発表直前だった。しかも、この作品をけなすことは許されない。実は、これらのシーンを、すでにニュースでなんど見たことか。それを、重ねて劇映画で見せられたのだ。この映画は、世界中で当たる。当たるというよりも、見ない人は人ではない。そのような映画。私は、スピルバーグがこわくなってきた。あまのじゃくの私は、”心”の映画を”ソロバン”の映画で見せられてくる恐怖を感じてしまったのだ。」

 残念ながら、スピルバーグもまたかつての少年の心を忘れて「アメリカ的な押し付け正義」にはまりつつあったのです。淀長さんがが映画に求めるのは、「心」であって「商売心」ではないのです。

「映画というものには”心”がある。このようなことを今さら申せば笑われよう。ところが、思えば思うほどこれがこわい。そこに生まれる作法と行儀。作法、これを英語にするとマナーズ、またはエチケット。行儀、これもマナー。行儀が悪いのは”ノー”。誰もが知っている言葉。これがなくては映画を見に来ない。それなら殺人映画、麻薬映画、やくざ映画はゼンメツかと早とちりされては困る。それぞれに”心”があればこそ、りっぱに当たる。ギャング映画の「ゴッドファーザー」でも「スカーフェイス」でも、これを作る人の心がこもると当たる。」

 とはいえ、彼は評論家です。「心」を表現するための技術がともなわなければ、作品として評価することができないのは当然です。そして、彼は「心」と「技術」があれば、どんな題材でも名作になりうるとも考えていました。ダメな男とダメな女が出会いと別れを繰り返すだけのメロドラマも、優れた監督が撮れば映画史に残る名作になることもあるのです。そう、あの成瀬巳喜男の「浮雲」はそのことを見事に証明しています。

「いま、そのドラマ、これで見てとれ見惚れさせる名作がない。ドラマをメロドラマと呼んで、あまいとばかにした。それは本当のドラマの名作の演出がへたくその場合である。マービン・ルロイ監督の「哀愁」(1940年)だって、メロドラマといえる涙もののドラマだが、作り手によって美しい名作として生まれてくる。しっかりした監督の手になると、メロドラマもハイクラスのドラマに生まれかわる。」

<最後の日々を生きる>
 1998年11月11日に89歳でこの世を去るまで、彼は映画を見続けました。晩年の彼の文章を読むと、彼がいかに大切に最後の日々を生き、最後の日々に見る映画を大切にしていたかがわかります。

「うそをつけ。また芝居気取りか。かかるおしかりもあろうが、そうでない。もうあと3年、ひょっとして2年、ひょっとして1年、そうなると”生きている”ことに目がパッチリとひらき、いま、生きていることのたいせつさがしみじみと身にしみて”時間”のたいせつさが胸にやきつき、”生きているあいだに”これが胸にしみこみ、人生この二文字が、いまにいたってようやくにしてわかる、そのことをうそでなくうれしくおもう。
 このように、”生きる”ありがたさを86年間知らぬまに生きていたわけ。これも映画その映画の中の”死”、私が知ったその”自殺”、これらが絵空事でなく身にしみたいまの年齢。この年齢を、私は冬の火、もっとはげしく燃やして、”冬の狂火”とさえ呼んで見たい。」

 なんという生き様。最後の日々に向かって、こうして大切に日々を生きることが出来た人は幸いです。多くの人は、そうした最後の日々を過ごすことなくその生を終えてしまうのですから。常日頃から、今が人生最後の幸福な日々なのだと思いながら生きられたら・・・どれだけ豊かな人生を送れることか。
 最後に改めて彼が語る映画の見方をお読み下さい。そして、次に映画を見る際には、この言葉をちらっとでも思い出していただければと思います。

「映画を感覚で見よ。論文で見るな。
 映画を楽しんで見よ。
 映画を俳優で見よ。
 映画を監督で見よ。
 映画は俳優の表情の巧みを見よ。
 監督の演技のつけかたのきびしさを見よ。
 映画は、そのシナリオの良し悪しで決まる。そのシナリオで見よ。そのシナリオは、映画を語るストーリーの階段のこと。
 映画を漢字で見るな。映画は、ひらがなで見よ。やさしく美しく。
 見た映画を叱るときは、映画をよくよく知ってから叱れ。映画を叱るということは、映画を100本見たゆえに叱る権利があるのではなく、人間を深く学ぶ勉強をしたひとがその権利を持つものである。貧しい生活をしてきた人には映画はわからない。これは食うに困る生活をし続けた人のことではない。貧しい人とは、人をうらみ人をそねみ続けた人のこと。幼いころから豊かにものごとを見る目を持つことのできた人こそが映画を知る。」


 チャップリンの通訳をし、フランク・キャプラと映画について語り合い、ジョン・フォードと対談をした生きた伝説ともいえる人物だった彼のことを、弟と僕は昔よくこう話していました。
「実は淀長さんは、とっくにこの世を去っていて、テレビに映っているのは予め録画してあった映像なんじゃないか?」(当時はCGというものが無かったので・・・)
 そんな弟がまさか映画の宣伝部に勤めることになるとは・・・そのうえ、映画の試写室で淀長さんに会ったとのこと。そうやって、映画に関わることになった人がどれだけいることでしょうか。このサイトを見た方の中からも映画が好きになり、映画の仕事に関わる方が現れれば僕も本望です。
 今後も、映画のコーナーはどんどん増強してゆきますので、今後ともよろしくお願いします。

「観てられないのね。よくこんな馬鹿なことするなあって。二人やるだけやって死ぬのはけっこうよ。やってもかまわないよ。でも死ぬ瞬間はね、やっぱりどんな人だって顔は変わる。どれだけ楽しくやっても、くたびれても、この世からオサラバするときはちょっとくらい顔変わるものなのよ。あれね、ピクニックや遠足に行ったみたいに死ぬのよ。呆れるね、あの感覚のなさには。」
映画「失楽園」について、北野武対談集「頂上対談」より

「映画評論っていうのを確立したんです。片方で黒沢監督ってのがいて、評論界に淀川さんがいた。二人が亡くなったことで、ひとつの時代が終わったって感じだね。映画にとっての良き時代を、黒沢さんと淀川さんが一度切っちゃった。・・・ 淀川さんが登場してからいろんな評論家が出てきたけど、みんな映画を誉める。テレビの淀川さんを見ていると、どんな作品でも誉めると思っちゃうんだろうね。水野晴郎なんか、全部そのスタイルで、全部誉めてる。でも実は淀川さんという人ほど映画をけなす人はいなかった。好き嫌いがこれほど激しい人はいなかったんじゃないの。合掌。」
北野たけし「頂上対談」より
 彼はもともと映画の宣伝マンであり、テレビでの映画紹介から有名になった人です。それだけに、映画を誉める人という印象が広まったといえます。それだけに、「日曜洋画劇場」の画面から消えてからの彼は自由に好き嫌いを言える立場になっただけでなく、業界にまったく恐いもののない最強の評論家になっていました。本当は、評論家のすべてがそうあるべきなのですが・・・・・。

<参考資料>
「最後のサヨナラサヨナラサヨナラ」
 1999年
(著)淀川長治
集英社

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