「路 YOL」 1982年

- ユルマズ・ギュネイ Yilmaz Guney -

<訪ねてみたくなる舞台>
 あなたは映画を見て、その映画の舞台となった場所を訪ねてみたいと思ったことがありますか?僕がそう思って本当に旅に出てしまった唯一の映画、それがこのトルコ映画「路 YOL」です。この旅の後、この映画は僕の人生にも大きな影響を与えることになりました。(詳しくは、中島みゆきさんのページに書かれていますが、それはまた別のお話)
 ご存じない方が多いかもしれませんが、この映画は1982年カンヌ映画祭でグランプリと国際批評家大賞を同時受賞した文句なしの名作です。しかし、トルコ映画でありながらトルコ国内では公開されず、ほとんどのトルコ人にとっては、その存在すら知られていません。
 監督のユルマズ・ギュネイは、この映画の撮影中監獄の中におり、撮影終了後に脱走し亡命先のフランスで編集作業を行ったというスキャンダラスな話題作でもあります。
 後に僕はトルコを一人旅しながら、これだけ力強く、美しく、悲しい映画を生み出すことができたのは、トルコという国自体がそれらすべてを合わせ持つ、魅力にあふれた国なのだということを知ることになります。
 原題の「YOL」とは、トルコ語で「路」「道」「旅」「出口」「方向」などいろいろな意味を含み持つ言葉なのだそうです。この映画は、「路」を旅するトルコの人々を描くと同時に、見る者を「旅路」へと向かわせる強烈な魅力をもった作品でもあるのです。

<路の物語>
 この映画の物語は、1980年のトルコ、ヨーロッパとアジアが向かい合うマルマラ海に浮かぶイムラル島から始まります。その島は、アメリカのアルカトラズや日本におけるかつての佐渡島と同じ、犯罪者のための拘置所として使われています。ある日そこに拘置されているほとんどの囚人たちに5日間限定の仮出所の許可がおりました。そこで彼らは、それぞれの故郷に向かい旅に出ることになります。
 この映画では、その中の5人の男たちにスポットを当て、それぞれの旅を描くことで、当時のトルコの人々の生活、男と女の関係、イスラムの古い慣習、そして未だに中東の火種と呼ばれているクルド人問題を見事に映像化しています。

<クルド人問題>
 クルド人というのは、ペルシア系の民族でトルコ東部、イラク北西部、イラン西部、それにアルメニア、アゼルバイジャンなどの国々に住んでいます。宗教はイスラムで人口は1000万人を遙かに越えているようですが、およその数字しかつかめていません。なぜなら、元々半農半遊牧の民だった彼らにとって国境は存在しないも同然で、部族単位で自治を行う国家を持たない状態が古代アッシリア帝国時代以前から延々と続いているからです。
 しかし、第二次世界大戦終結後、世界各地で多くの民族が独立国家を樹立する中、クルド国家建設の動きが高まります。同じ様な立場にあったユダヤ人は、イスラエルを建国しますが、クルド人にはそれが許されませんでした。彼らにはその独立を助けてくれるアメリカのようなパトロンも存在せず、おまけにあまりに広い範囲に散らばりすぎていて国土を定めることが困難だったのです。
 イランでも、イラクでも、彼らは独立を阻まれ、その難民たちが比較的自治権を認めてくれたトルコへと大量に移動するようになって行きました。こうして、この映画公開の当時、トルコの総人口4000万人に対し、1200万人がクルド人だったとも言われています。(この映画の監督ユルマズ・ギュネイもまたクルド人です)
 こうして、急激に人口が増えることで、再びクルド人の独立を求める動きが活発化。しかし、未だに古い慣習を持ち続け、経済的基盤ももたない彼らにとって国家の建設は、遠い存在のままなのです。

<トルコ版ロード・ムービー>
 さて、お話の方はといいますと、・・・。
 ある男の妻は、彼が入獄中、男に体を売ったことが家族にわかり、実家へと帰されていました。男は彼女のいる雪深い山奥の村へと向かいますが、彼には仮名を守るために自らの手で妻を殺さなければならないという厳しい運命が待っていました。
 ある男は、いっしょに銀行強盗を行った時に見殺しにしてしまった相棒の家族に命を狙われる運命にありました。
 ある男は、久しぶりに婚約者のもとを訪ねますが、彼女の親戚たちが二人を常に監視し、愛をささやくことすらできません。たまりかねた男は、ついに売春宿に飛び込んでしまいました。
 クルド人のある男は、自分の村にもどると兄が独立派のゲリラとして戦闘に参加し命を落としてしまいます。そのため、彼は兄の妻と結婚しなければならず、恋人と別れることになります。さらに彼は兄の意志を継ぐためゲリラに参加する危険な道を選びます。
 どれもかなり重い話しなのですが、なぜか絶望的な気持ちにはなりません。(元々遙か遠くの国の人々の気持ちになること自体、不可能なことかもしれませんが・・・)
 旅の途中の景色やそれぞれの男たちの故郷の風景の美しさには、涙が出そうなほど感動させられてしまいます。特に、クルド人ゲリラに加わることになる男が馬に乗って草原をさっそうと走るシーンの美しさは、この世のものとは思えないほどです。
 そこは、トルコ南東部のウルファからさらにシリアよりのハランという小さな街のまわりに拡がる草原でした。僕は、その映画を見た翌年その風景を見ようと思い立ち、トルコへ一人旅を旅立ったのでした。
 この映画は、こうしてトルコの北西の端から南東部まで長い旅をしながら人々の様々な人生をも見せてくれる見事なロード・ムービーに仕上がっているわけです。

<伝説の監督、ユルマズ・ギュネイ>
 この映画の監督ユルマズ・ギュネイは、まさに「伝説の監督」と呼ぶに相応しい存在です。
 1937年、トルコ南部の軍事拠点都市アダナ近郊に生まれた彼は、クルド系の貧しい農家に育ちました。1953年彼は職を点々とした後、イスタンブールにある映画配給会社で働き始めます。彼はジュールス・ダッシン監督の社会派映画に感動し、自らも社会派の映画を撮る決意を固めます。その後、彼は短編小説や映画の脚本などを書き始めると同時に映画界に俳優としてデビューします。
 1960年、トルコでは軍によるクーデターが起き、軍事政権が発足。翌1961年に彼は共産主義的小説を発表したという罪で起訴され、7年半の入獄を命ぜられます。その後彼は減刑され、1964年に出獄した後、俳優兼脚本家として大活躍をし始めます。
 特に二枚目俳優としての彼の活躍は目覚ましく、007のトルコ版映画の主役をはじめ、年に27本!もの映画に出演したことがあるそうです。こうして、この時稼いだお金が後に彼の映画製作を支えることになります。

 1968年、彼は自らの資産をつぎ込んでギュネイ・フィルムを設立し、製作、監督、脚本そして主演も兼ねた作品を発表し始めます。

 1970年、2年間の兵役を終えた彼は、いよいよ長い間目指していた社会派の作品「希望 UMUT」を製作します。しかし、この作品は政府によって上映を禁止され、彼は事実上破産、再び雇われ監督として作品を発表せざるを得なくなります。それでも1971年に「希望」がカンヌ映画祭に招待出品され、1972年の作品「父」がヴェネチア映画祭で国際批評家賞を受賞するなど海外での評価は高まり続けました。

 1972年、彼はアナーキストの学生をかくまっていたという罪で再び投獄されますが、そこをアメリカの映画監督エリア・カザンが訪れ、彼との対話を記した手記を発表。その影響もあり、再度彼は釈放されます。

 1974年、再び彼は映画製作を開始し、すぐに「友 ARKADAS」を発表します。ところが、その頃政権が崩壊し、右派勢力による政権に変わると再び彼は逮捕されます。なんと罪状は判事を殺したという容疑でした。裁判では真犯人が明らかになったのですが、なぜか彼は出獄を許されませんでした。この時、彼の刑期は合計で100年を越える長さだったといいます。こうして、彼の長い獄中からの映画製作活動が始まります。

 1975年、獄中で彼が書いた脚本をもとに、代理監督が演出し2本の映画を完成させます。

 1978年、獄中での自由が増えた彼は獄中に監督を務めるゼキ・オクテンを呼び、綿密な打ち合わせをしながら新しい作品を作り始めます。こうして発表された「群れ SURU」(1978年)はロカルノ映画祭でグランプリを受賞。「敵 DUSMAN」(1979年)はベルリン映画祭で最優秀脚本賞を受賞します。

 1980年、再びクーデターが起き、軍事政権によって彼の作品「友」「敵」「群れ」が上映禁止になります。しかし、彼は仮出所の際、トルコの南東部を旅しながらロケハンを行い、「路」を製作する準備を始めます。

 1981年、「路」の撮影が終わった時、彼は5日間の仮出所の際、そのままスイスへと出国し、フランスへと亡命します。こうして彼はフランスで最終的な編集作業を行い「路」を完成させます。

<獄中での映画製作>
 驚いたことに、彼にとって獄中での映画製作は、ある意味必要不可欠な方法だったと言います。なぜなら、彼は獄中にさえいれば右翼の暗殺者に狙われることもなく映画に集中できたのです。おまけに獄中で、壁に撮影中のフィルムを映写することも許されたというのですから、・・・トルコという国は、怖いようでいて、やっぱりどこかのどかな国なのです。
 この「路」のストーリーは、彼自身の獄中体験だけでなく、他の囚人たちの協力も得ています。彼はこの映画と同じように行われた仮出所の際、故郷へと旅立つ囚人たちに5日間の記録を書いてきてほしいと頼みました。こうして寄せられた数多くのメモから選び抜かれ、組み合わされて生まれたのが、この映画だったのです。その意味でも、この作品はリアルに裏打ちされた作品であると言えるでしょう。これだけ厳しくかつ素晴らしい作品を作ることは、今の日本では不可能かもしれませんが、たぶんそれは幸福なことなのかもしれません。

<どこまでも自由な天上へ>
 1983年、彼はフランスで新作「壁 LE MUR」を製作しますが、この時すでに彼は不治のガンに冒されていたようです。
 1984年9月9日、彼はパリでこの世を去りました。まだ47歳という若さでした。
 トルコという国は本当に魅力的です。春夏秋冬がはっきりとした気候、魚料理が豊富な食文化、恥と名誉を重んじる気質、そしてアジアの両サイドに位置するという点で、昔からトルコと日本には共通点があると言われてきましたが、トルコを旅するとそのことを直に体感することができるでしょう。かつて、小津安二郎が描いた古き良き日本人の姿が、未だにそこにはあるのです。

「路 YOL」 1982年
(監督) ユルマズ・ギュネイ Yilmaz Guney
(脚本) ユルマズ・ギュネイ Yilmaz Guney
(演出) シェリフ・ギョレン Serif Goren
(撮影) エルドーアン・エンギン Erdogan Engin
(編集)ユルマズ・ギュネイ、エリザベス・ヴェルクリ Elisabeth Waerchli
(音楽)セバスチャン・アルゴル Sebastian Argol、ケンダル KENDAL
(製作)エディ・エブシュミット E.Hubschmid、K.L.プルディ K.L.PULDI
(出演)タルック・アカン Tarik Akan、シェリフ・セゼル Serif Sezer、ハリル・エルギュン
     Halil Ergun、メラル・オルホンソイ Meral Orhonsoy、ネジュメッティン・チョバンオウル
     Necmettin Cobanoglu
<あらすじ>
 1980年秋、トルコのマルマラ海に浮かぶイムラル島拘置所の囚人たちに5日間の仮出所が与えられることになりました。この映画は、こうして5日間の自由を与えられた囚人たちが体験するそれぞれのドラマをオムニバス形式で撮った作品です。
 夫が入所中、生きるために身を売った妻を自らの手で死に追いやることになった男の話。
 クルド・ゲリラの兄の死から自らもゲリラに身を投じるべく国境へと向かった男の話。
 銀行強盗の際、仲間を見捨てたため、その弟に命を狙われることになった男の話。
 トルコ各地を舞台に5人の男たちのドラマが展開します。

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