戦後日本の民主化と吉田茂

- 吉田茂 Shigeru Yoshida 、ダグラス・マッカーサー Douglas MacArthur -

<近代日本の革命>
 近代日本史において、かつて二つの革命がありました。一つは明治維新。政治体制から市民生活や風俗まで、すべての面でこの時日本は変わりました。では、もう一つの革命は何か?それは太平洋戦争敗戦後に起きています。この革命もまた日本を大きく変えましたが、それを主導したのが占領軍だったことや戦後の混乱の中で行われたことから、多くの人はその変化の大きさに気づかなかったかもしれません。もちろん、革命が市民によって行われるものだとすれば、それは「上からの革命」もしくは「改革」と呼ぶべきかもしれませんが・・・。
 ここでは、その革命(民主化改革)の歴史とその中心となった吉田茂に注目しながら昭和日本の体制(55年体制)が完成するまでを追ってみたいと思います。

<戦中から始まっていた改革>
 戦後占領軍が行った改革の中でも、実はすでに戦中からその動きがあった分野があります。先ずは、そこから始めてみます。
<農業改革>
 日本の農業体制は太平洋戦争終戦時まで江戸時代からほとんど変わっていませんでした。農地のほとんどは地主が所有し、小作農はその土地を借りて農作物を作り、その使用料を現物で支払う。この状況が明治維新以降も続いていたのは、選挙において地主の力が強かったことから、彼らの既得権益を守らなければならなかったからです。(小作農には投票権がありませんでした)
 1940年、日本の総労働人口の40%は農業に従事していました。農民の中で自分の土地を所有していたのは、わずか36%。そのため、農地の46%、ほぼ半分は小作農によって耕作されていたのです。ちなみにそのころ平均的な小作料は、その土地から得られた農産物の50%程度でした。(現物による支払)
 ところが戦争が始まると状況は激変します。1941年、政府は「食料管理制度」を導入。この制度により、政府は小作農から直接食糧を買い上げられるようにしました。戦争によって軍は大量の食糧を必要とするようになったため、それを確保する必要があったために行われた改革でした。しかし、この制度によって、地主が得る収入は激減し、小作農は地主から実質的に切り離されることになります。
 1946年、終戦後、農地改革が始まると占領軍はそれまでの慣習も選挙のことも関係なく問答無用に地主から土地を奪い、小作農へと分け与えます。それはロシア革命に近い劇的な改革でした。それはまさに「上からの革命」でした。
<福祉厚生革命>
 1936年、政府は多くの軍人を必要とするようになり、陸軍が全国的な健康調査を実施しました。すると貧困などを原因とする栄養不良や病気(結核など)による兵役不適格者がかなりの数にのぼることが明らかになりました。このままでは、兵士の不足が軍の足かせになると考えた政府は、1938年に厚生省を新設。これにより医療保険の制度がより幅広く適用されるよう改革が進められます。その結果として、1945年までには人口の半分が健康保険の対象者となりました。
 さらにその間、年金制度も改革されたことで、労働者が安定して働く状況が生まれます。そのため、労働者の移動が減ったことで、国内の生産体制が安定しただけでなく、そこから得られた年金基金を戦争のために流用することも可能になりました。(現在も年金の多くが無駄に使われているようですが、かつては戦争資金のために年金が用いられていたのです!)
 年金制度は、誕生の時点からすでに国による搾取のシステムの一部だったのかもしれません。
<技術革命>
 昭和日本の高度経済成長を支えた日本の科学技術は、戦争によってほとんどの施設や機械を失ったことで、いち早く先端の設備を導入できたため有利だったという考え方もあります。しかし、戦前戦中に日本が発展させた戦争のための様々な科学技術や工作技術の基礎が戦後に生きたことも間違いないでしょう。

 日本の研究者の中には戦時中こそ疑いなく良き時代であったと考える人もいる。挑みがいのある知的問題はほんらい魅力的なものであり、先端研究にたいする前例のない支援は願ってもない幸運だった。じっさい、第二次世界大戦が日本にもたらしたさまざまな皮肉のひとつは、軍国主義と侵略とが - 国土の荒廃と270万に近い日本人の生命を代償に - 、とりわけ科学研究の範囲と規模における飛躍的発展を強制し、それが戦後の経済的「奇跡」の基盤を提供したことである。・・・

 さらに日本には欧米とは異なる技術に関する特徴がありました。それは、日本には「クール・ジャパン」に定番の「職人技」というやつがあることです。それには、日本と欧米の技術についての考え方の根本的違いが影響していると思われます。日本人が大切にしてきた「職人技」とそうした技術へのこだわりこそ、戦後の日本経済を支える重要な財産となりました。

「アメリカ経済では消費者が主催者だが、日本では製造者が主催者である。それが根本的なちがいだ」
ジェームズ・ファローズ(ジャーナリスト)

<そこにあった革命の危機>
 こうして異なる三つの分野の改革をみると、いずれも戦争中すでに日本では改革が進んでいて(理由はさておき)、戦後の改革はそのおかげで一気にかつスムーズに行うことが可能だったと考えることもできそうです。日本は終戦と同時に「革命」を受け入れる準備ができていたのかもしれません。
 実は、戦時中も政府は日本で社会主義革命が起きることを恐れていたようです。それも革命は単純な労働者革命ではなく、政府や軍内部からもその動きが起きる可能性があると考えていました。
(1)「上からの革命」
 軍や官僚の上層部に左翼思想をもつ人物が相当数いたことから、彼らが天皇をトップとした「天皇制共産主義」ともいえる政権を計画しているのではないかと政府は恐れていました。「赤いファシスト」ともいえる存在がもし大衆の扇動に成功すれば革命は現実化するかもしれない、それを恐れていたのです。
(2)「下からの革命」
 当時の農民の置かれていた状況は、ロシアのそれと大差ありませんでした。当然、ロシア革命の影響は日本にも及んでいました。

「日本において封建主義の残滓を放置すれば、小作農と地主階級との利害対立は尖鋭化し、革命的な農民運動の危機が創りだされ、かくして、農民戦争によるプロレタリア革命を支持するための諸条件が創りだされる。」
レオン・トロツキー

 そのうえ、戦争は日本に生まれつつあった中産階級から土地や財産を奪い、貧富の差が再び拡大することになりました。終戦に近ずくほど、日本の大衆全体が反体制派に変わりつつあったといえます。

 上層階級の人間はとても利己的で、下層階級の人間は喰いたいだけだった。日本の中産階級は膨大な数だった。その中産階級は戦火により破壊されて下層階級になり、上層階級と中層階級は相携えて戦争の終結を望みはじめた。彼らは反政府になった。

 結局、戦時中も戦後も日本で革命が起きることはありませんでした。しかし、それはもしかすると大衆に代わって占領軍が民主化改革という名の「革命」を行ってしまったからかもしれません。

<天皇制の維持>
 1945年、占領軍は占領後の改革を行う前に重要な判断を下します。天皇制の維持です。それは日本での占領政策をスムーズに行うために天皇を利用することを考えたからでした。

「天皇を皇室から引きずり降ろしたり、絞首刑にすれば、すべての日本人から恐ろしい暴力的な反応を招くことになろう。彼らにとって天皇を絞首刑にすることは、われわれにとってキリストを十字架にかけることに匹敵する。すべての日本人が戦い、そしてアリのように死ぬだろう」
太平洋軍司令部情報将校作成の機密文書より

「ひとたび、東京の軍国主義者たちが死に、軍隊が壊滅し、天皇のもとで自由主義的な政府がつくられるなら、日本国民は - 今より哀れで、数も少ないが、賢くなって - 自分たちの生活の再編にとりかかれる」
マッカーサー付き情報担当官の報告より(1944年7月)

 しかし、こうした実利的な考え方とは別にマッカーサー本人が昭和天皇と会い、その人間性を認めたことも大きかったといわれています。マッカーサーの知人バイニング夫人がマッカーサー本人から聞いた記憶によると、1945年12月7日に二人はこんな会話をしたといいます。(二人は合計11回の直接会見を行っています)
「戦争責任をおとりになるか」
「その質問に答える前に、私のほうから話をしたい」
「どうぞ、お話なさい」
「あなたが私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け入れる。私を絞首刑にしてもかまわない。・・・しかし、私は戦争を望んだことはなかった。なぜならば、私は戦争に勝てるとは思わなかったからだ。私は軍部に不信感をもっていた。そして私は戦争にならないようにできる限りのことをした」
 まあ、すべてが真実だとは思えませんが、マッカーサーが昭和天皇を信頼するきっかけになったことは確かでしょう。

 この天皇制の維持に関してはマッカーサーの意向が大きかったようですが、もうひとり日本側のトップとなったばかりの総理大臣、吉田茂もまた天皇制維持にこだわりました。戦後日本の改革を支えた人物として、彼の存在を忘れるわけにはゆきません。
 時にはマッカーサーと本気で渡り合い、時には日本政府の閣僚たちを怒鳴りつけながら、占領政策を着実に実現させていった彼は「ワンマン」と呼ばれていました。しかし、彼の決断力と牽引力がなければ戦後政策はまったく進まず、戦後日本の復興は10年以上は遅れていたかもしれません。

<吉田茂>
 戦後日本最大のヒーロー、吉田茂について、「昭和」の著者、ジョン・W・ダワーはこう分析しています。
(1)孤独な少年期を過ごしたことからきた感情の欠如。
 彼の父親は自由民権運動の闘士でしたが、反体制活動により逮捕されていて、母親もいませんでした。(芸者さんだったらしい)そのため、彼は父親の友人のもとで育てられることになります。彼は犯罪者と芸者の子として、孤独な少年時代を過ごすことになりました。彼が「ワンマン」となったのは、誰にも頼ることのできないその生い立ちのせいだったともいわれます。
(2)明治維新を理想とする旧タイプの政治家
 父親が自由民権運動の闘士だったこと、彼が明治時代に青春時代を送ったこと、そして、明治政府の中心的存在だった大久保利通の孫娘と結婚したこと。どれも彼が明治維新の理想を重要視しする理由になったと考えられます。
(3)世界を知る知見の広さ
 彼は1906年から長く青年外交官として欧米で働いています。当然、西欧諸国と日本の違いもよく理解していました。
(4)親英派
 海外からの帰国後、外務省に属した彼は英国の民主主義を理想としていて、新興国アメリカは好きな国ではなかったようです。ただし、実利を重んじる彼はアメリカによる占領に対し、すぐに頭を切り替え、アメリカを利用することを考えるようになりました。
(5)官僚政治の確立
 「ワンマン」で有名だった彼は、議員による民主主義を信じず、エリート官僚による独裁的、官僚主義的な政治手法を好みました。後に総理大臣となった池田勇人や佐藤栄作らは彼に育てられた「吉田学校」の卒業生でした。官僚の権力は、戦後、軍が力を失ったことで一気に勢いを増すことになりますが、その後押しをしたのが占領軍と吉田茂でした。
(6)軍部への不信
 彼は常にタカ派の政治家でしたが、軍上層部の人間たちを信じてはいませんでした。
(7)天皇制重視
 嫁の祖父、大久保利通が明治政府において天皇の側近だったように、彼もまた皇室を重視。天皇制の維持に強いこだわりをもっていました。
(8)危険思想の弾圧
 バリバリの保守派だった彼は、反天皇制や共産主義など、反体制思想への弾圧にこだわり、1950年代には赤狩りを積極的に進めてゆきます。
(9)愛国者
 彼は祖国日本とその中心の天皇の名誉を守るという究極の目標を持っていました。そのため、国際的な日本の地位向上のために、あえて民主主義的(左翼的)な占領軍の改革を受け入れる道を選びました。

<憲法第九条誕生>
 占領軍による戦後改革の中でも最も重要なこととして、新憲法の制定があります。中でも第九条については、世界に誇れる画期的な内容でした。しかし、21世紀の今、日本では再び改正もしくは新解釈案(骨抜き化案)が浮上しています。

<憲法第九条>
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


 いったい誰がこの内容を盛り込んだのか?今でも正確なところは明らかになっていません。しかし、この部分が人類の未来にとって重要な項目であることだけは明らかです。世界に先駆けて、この項目を盛り込んだ日本が、それをもし削除したら、もしくはそれを無効化したら・・・。今はその危機が訪れつつありますが、僕は反対です。太田光&中沢新一さんと同じく、僕も「憲法を世界遺産に」するべきだと思います。(できれば、キング牧師の演説ジョン・レノンの「イマジン」も世界遺産にしてほしいと思います)
 実は当時、アメリカ軍はこの条項がここまで大きな存在になるとは思っていなかったようです。

 憲法草案の「戦争放棄」条項をワシントンは予期しておらず、1946年にはこれを契機に、前述した将来の軍事要塞としての日本に関する論議に火がついた。しかし、概していうと、第九条にワシントンが驚愕したわけではなかった。・・・1947年より前に、ワシントンの政策立案当局の幹部で、近い将来に日本が真剣に再軍備に向うなどと考えていた者がいたとしても、第九条は比較的容易に修正できると考えていた。

 ある意味、日本はアメリカによるアジア支配の理想のモデルでした。(マッカーサー個人の理想だったともいえるようですが・・・)マッカーサーは日本を「太平洋のスイス」として非武装中立地帯とするつもりでした。それにより、アジアに平和をもたらすことは世界平和にも通じるという理想を描いていました。しかし、マッカーサーの本国における失墜と朝鮮戦争の始まりによって、彼の理想論は変更を迫られます。

<左から右への方向転換>
  終戦と同時に始まった米ソ対立は「冷戦」に発展。アメリカは共産主義の広がりを危険視し始めます。こうして始まった「赤狩り」によって、戦後日本で進められていた左派の官僚たちによる民主的な改革に急にストップがかけられることになります。
 1947年には、それまで政府主導で作られ、活動を活発化させていた様々な業種の組合が、その活動を抑え込まれ始めます。
 1948年3月 ワシントンから国務省政策企画班長、ジョージ・ケナンが来日。マッカーサーに政府の意向を伝えました。
(1)改革や追放などをこれ以上進めないこと。
(2)日本の悪事をさらには洗い立てず、戦犯裁判を早期に終結させること。
(3)日本国民の不満解消に向け、改革よりも貿易など経済復興を第一義的な目的とすべきこと。
(4)日本独立に向けた調和を視野に入れ、警察を強化する、また沖縄・横須賀の基地は確保しつつ、総司令部の権限をできるだけ日本政府に委譲すること。
 マッカーサーは当初ワシントンのこの方針に反対します。しかし、政府は民主化が行き過ぎて社会主義思想が浸透しつつある状況にストップをかけるため、民生局のホイットニー局長、ケーディス次長らをはずしてしまいます。1948年に二人は帰国し、いよいよGHQの方針転換が本格化することになります。
<ドッジライン>
 1949年2月には、デトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジが来日。有名な「ドッジ・ライン」に基づく政策が始まることになります。
「日本経済は竹馬にのっているようなものだ。竹島の片足は米国の経済援助、片足は国内的な補助金の機構である。竹馬が高くなりすぎると、転んで首を折る危険がある」
ジョセフ・ドッジ
 こうして、援助金、補助金の大幅カットが始まることになります。大幅に政策資金が不足したことから、日本政府は人件費のカットをする必要に迫られ、26万人に及ぶ公務員の大量解雇に踏み切ります。国鉄は独立採算性となり、12万人の解雇を発表。当然、国鉄はストライキを決行します。そして、そんな労組の活動を抑え込むために?「下山事件」」「三鷹事件」「松川事件」が起きることになります。

 その他、様々な反共政策政策の中でも1948年に米軍が戦車まで動員することによって抑え込んだ映画会社、東宝における労働争議、「東宝争議」は代表的な事件です。さらにその年、巨大企業による独占を防ぐために進められていた「企業解体」の政策にもストップがかかります。当初、企業解体の対象とされていた企業325社のうち、実際に解体されることになったのはわずか11社だけになりました。日本では、再び巨大企業による富の独占が行われるようになります。
 民主化のストップは日本において、改革を求めていた大衆の声を無視することになり、再び日本における革命の危機を浮上させることになります。それに対し、危機感をもったアメリカは次なる手を打ちます。日本の共産化を阻止し、米のアジアにおける拠点としておくためには、日本をいち早く国際社会に復帰させ、同盟国の一員に迎え入れるべきではないか。そう考えたのです。
 こうして、1951年サンフランシスコ講和条約が締結されることになりました。ただし、この時、秘密の内に講和条約とのセットとして締結された日米安全保障条約は、その後日本全体を揺るがすことになります。

<日米安全保障条約>
 1951年、CIAはアメリカの戦略上の日本の地位について、以下のような内容の文書を記しています。
 戦略上に占める地理的位置、産業能力、そして民間および軍事部門の豊富な人的資源ゆえに、日本が最終的にどちらの陣営につくかは、極東における勢力均衡にとって決定的な要因になる。もし共産主義勢力が日本を支配すれば、彼らは、
a.北東アジアの共産主義支配下の領土を保護できる。
b.西太平洋のアメリカの防衛ラインを突破できる。
c.ソ連圏の産業および軍事力、とりわけ極東における輸送力と海軍力を強化できる。
d.南および東南アジアにおいて共産主義の侵略行為を促進することができる。
e.他の地域に配置するように共産主義の軍事力を解放できる。
 逆に、日本が再軍備し、西側と同盟することになれば、
a.日本の産業および軍事的資源が友好国の手に残ること自体が西側にとって利益となる。
b.日本は西側の軍隊に北東アジアにおける潜在的な基地を提供することになる。
c.アメリカは太平洋における前哨部隊を守ることができるようになる。
d.共産主義の拡大にたいする戦いに臨む他の非共産主義諸国が勇気づけられることになる。

 要するにサンフランシスコ体制は、日本を世界の列国としては、軍事、外交両面で二等国に位置づけたのだった。1951年から52年の日米安全保障条約は、1960年に再び交渉されるまで、アメリカが交渉した冷戦期のどの軍事協定よりも不平等だった。沖縄はアメリカの唯一まぎれもない新植民地となり、その状況は1970年代までつづいていた。

<吉田茂の業績>
 天皇制の維持、平和憲法の制定、民主化改革、赤狩り、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約・・・右から左から弾圧から平和へ、戦後日本の揺れ動く政治姿勢の要所にことごとく関わった人物、吉田茂は海外から「日本における最も優れた政治家」と見なされているようです。(まあアメリカ人にとっては、理想のパートナーだったということで評価は当然なのでしょうが・・・)
 さらに彼によって育てられた「吉田学校」の生徒たちは、その後、日本において自由民主党による一党支配の体制を築き上げることになり、日本は1990年まで長く安定した政治体制が続くことになります。その自由民主党の結成は彼が政界を引退した1955年ですが、その後も1967年にこの世を去るまで彼は自由民主党のドンとして君臨することになります。

 吉田がもっとも誇るべき業績は、日本に主権を取り戻したことと、サンフランシスコ体制のもとでの寛大な講和条約と、その過程で日本をアメリカの冷戦政策にしっかりと結びつけたことである。この体制のもとで、吉田の後継者たちがわずか数十年後になしとげたみごとな経済的繁栄を見越していた者は、この時吉田以外にいなかった。否、吉田もほんとうは予想できていなかった。

 こうして、日本における昭和の政治体制が完成しました。この体制のおかげで日本はアメリカの核の傘のもとで順調に経済発展をとげます。出来の悪い子供だったはずの日本は、軍事費と宇宙開発の国家予算を注ぎ込み、ソ連との代理戦争を続けたアメリカにいつの間にか追いつき追い越していました。(経済的には・・・)まさか「ジャパン・アズ・ナンバー1」などというタイトルの本がアメリカ人によって書かれることになるとは、彼も予想はしていなかったでしょう。
 ただし、彼の作り上げた政治体制はサンフランシスコ講和条約から10年後、早くも大きな試練の時を迎えることになります。60年安保闘争です。この時、日本人は初めて、国民全体が戦後日本の復興の方向性は正しかったのかどうかを自らに問いかけることになります。再び、日本は「革命」の時代に突入することになるのです。

<参考>
「昭和 - 戦争と平和の日本 - Japan In War & Peace 」
 1993年
(著)ジョン・W・ダワー John W.Dower
(監訳)明田川融
みすず書房

「昭和史 戦後篇 1945-1989」 2006年
(著)半藤一利
平凡社

「負けて、勝つ~戦後を創った男・吉田茂~」NHKスペシャル・ドラマ
(ただし、このドラマは吉田茂をかなり単純に「英雄」として描いています。トップの発言により、その後明らかになるNHKトップの偏向を示す作品だったといえるかもしれません。時代の雰囲気や歴史の再現としてはさすがにNHKらしいリアリティーがあったのですが・・・)

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