- ヤング・ラスカルズ Young Rascals -

<音楽への愛>
 このサイトの読者から寄せられる感想でけっこう多いものに「このサイトからはミュージシャンへの愛情が感じられます」というのがあります。これは、僕にとって実にうれしい誉め言葉です。僕が目指しているのは、それぞれのアーティストたちの音楽への愛情を描くことでもあるのですが、そのためには描く方も同じように音楽への愛情を持たなければと常々思っています。
 当然、このサイトで取り上げているアーティストたちは音楽への愛にあふれている人たちばかりです。そう考えると、ここで取り上げるヤング・ラスカルズは、黒人音楽への愛情の深さという点では、もっと早く取り上げるべき存在だったかもしれません。僕も含め黒人音楽が大好きな日本人にとって、彼らのような「本物指向」のブルー・アイド・ソウルは、ある意味黒人たちによる本物のソウル以上に愛おしさを感じるものかもしれません。「ああ、この人たちって本当にソウルが好きなんだなあ」と妙な仲間意識を感じてしまうのです。

<ヤング・ラスカルズ誕生>
 ヤング・ラスカルズの中心メンバー、フェリックス・キャバリエは1944年11月29日ニューヨーク州のペルハムという町に生まれました。彼は最初フェリックス&ジ・エスコーツとして活動していましたが、まったくヒットに恵まれず、その後エディ・ブリガッティ(Bass,Vo)、ジーン・コーニッシュ(Gui,Vo)と出会い、ラスカルズというバンドを結成しました。さらにそこにジャズ界の大御所ライオネル・ハンプトンのバンドにいたこともあるというドラマーのディノ・ダネリが加わって、いよいよメンバーがそろいました。
 1964年、彼らはロングアイランドのクラブで白人R&Bバンドとして活躍するようになります。ショービジネス界の中心ニューヨークからは離れていたものの、ヤング・ラスカルズと改名した彼らの存在はしだいに業界人の間にも知られるようになり、ついにR&Bの名門レーベル、アトランティックとの契約が成立しました。

<名門アトランティックからのデビュー>
 1966年、彼らはデビュー・シングル「アイ・エイント・ゴナ・イート・ナウ I Ain't Gonna Eat Now」を発表します。この曲は、当時一足早く活躍していたブルー・アイド・ソウルの先輩、ライチャス・ブラザースを意識したアトランティックのお家芸フィル・スペクター式ウォール・オブ・サウンドでした。しかし、この後彼らはこうした、正統派ブルー・アイド・ソウルんも枠を越えた存在へと進んで行きます。それは時代の先端に立ちつつあったロックとの融合でした。

<時代の変化、ロック時代の到来>
 偶然かもしれませんが、こうした彼らの変化は、彼らの所属していたアトランティックの変化とも一致していました。1967年、アトランティックは大手のレコード会社、ワーナー・ブラザースの傘下に入りました。経営のトップはそれまで通りアーメット・アーティガンジェリー・ウェクスラーでしたが、その運営方針は微妙に変わり始めます。それまでは、黒人アーティストによるR&Bやジャズが主体だったレーベルに、しだいに白人のアーティストたちが加わり始めるのです。特にスーパー・ロック・バンドと言われたブラインド・フェイスやレッド・ツェッペリンの加入は、アトランティックのイメージを大きく変え、その後迎えることになるロック黄金時代の最重要レーベルとしての地位の基礎となりました。(その後、このレーベルは黄金メンバーのお披露目のために「ホット・メニュー’73」というアルバムを出しています。凄いメンバーです!)

<ソウルから独自のロックン・ソウルへ>
 ヤング・ラスカルズのデビュー・アルバム「ヤング・ラスカルズ」(1966年)は、R&Bのカバー曲がほとんどで、オリジナル曲はわずか一曲だけで、全米ナンバー1ヒットとなった彼らの代表曲「グッド・ラヴィン Good Lovin'」も、ウイルソン・ピケットのカバーでした。
 しかし、セカンド・アルバムの「コレクション Collection」(1967年)では、その比率は半々となり、3枚目のアルバム「グルーヴィン Groovin'」(1967年)ではカバー曲はわずか一曲だけになっていました。彼らは、ビートルズやローリング・ストーンズ同様、R&Bのカバー・バンドからオリジナル曲を中心とする本格的ロック・バンドでと変身をとげていったのです。とは言っても、彼らの音楽性の基本がR&Bであることに変わりはありませんでした。その証拠に彼らの3枚目のアルバムからのシングル「グルーヴィン Groovin'」は、ポップ・チャートのナンバー1になると同時にR&Bチャートの3位まで上昇するという快挙を成し遂げています。黒人アーティストで両チャートにまたがるヒットを飛ばすことはあっても、白人アーティストがR&Bチャートの上位に進出するというのは非常に珍しいことでした。ところが、この「グルーヴィン」に関しては、多くの黒人たちがこの曲を歌っているのは黒人だと思っていたそうです。けっしてソウルフルにシャウトしているわけではないこの曲が、逆にソウルのフィーリングを強く感じさせたというのは、まさにこのバンドの実力を示すものでしょう。こうして、彼らはその後登場する数多くのブルー・アイド・ソウルのアーティストたちにとって、大きな目標となるのです。

<サイケデリックなバンドへ>
 この後、彼らはよりロック色、それもサイケデリック色の強いバンドへと変身をとげて行きます。しかし、それは単に時代の色を取り入れただけのものではなかったようです。
 リーダー格のキャバリエは、当時非常に有名だったヒンズー教の導師スワミ・サッチダナンダの弟子となり、その他のメンバーもヨガを本格的に学ぶようになっていました。ビートルズのアルバム「リヴォルバー」(1966年)「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」(1967年)もまた彼らに大きな影響を与えたようですが、この時代はロックのミュージシャンだけでなくあらゆるジャンルのアーティストたちがサイケデリックな世界にのめり込んでおり、彼らの音楽にもやはりインド的な要素が取り込まれていたのです。こうした、音楽的変化に合わせるように、彼らはバンド名を再びラスカルズに戻します。
 こうして、発表された1968年のアルバム「ワンス・アポン・ア・ドリーム Once Upon A Dream」は、いよいよ全曲がオリジナルとなり、フル・オーケストラやスティール・ドラムなども用いた複雑かつ完成度の高い作品となりました。
 次なるアルバム「Freedom Suite」は、ヴォーカル盤とインスト盤が一枚ずつという大作となりますが、このあたりから彼らは、それまで共同で曲を作ってきたフェリックス・キャバリエとエディー・ブリガティのコンビがうまく行かなくなります。シングル・ヒットも出なくなり、ついに1971年の「Search and Nearness」からはエディ・ブリガティがバンドを抜けることになりました。
 その後、ジーン・コーニッシュもバンドを抜けますが、キャバリエはバンドのメンバーを補強して再び2枚組となる大作「Peaceful World」(1971年)を発表します。しかし、内容は悪くなかったものの売上は伸びず、1972年のアルバム「The Island of Real」を最後にバンドは解散してしまいました。

<イタリア系のアーティストたち>
 フォーシーズンズ、ヤングラスカルズ、ローラ・ニーロらの初期ブルー・アイド・ソウルのアーティストたちに共通するのは何か?
 それは彼らがイタリア系だということです。では、なぜイタリア系が多かったのでしょうか?イタリア人はオペラやカンツォーネなどの歌を歌う文化が盛んであり、それもソウルフルな歌いっぷりが共通しているという説があります。初期のドゥーワップ・グループを見渡しても、確かにイタリア系は多数派でした。その他、イタリア系の音楽家をあげてみると、フランク・シナトラ、トニー・ベネット、ディーン・マーチン、テディ・ランダッツォ、ポール・アンカなど、明らかに50〜60年代にはイタリア系が多かったことがわかります。(最近の代表格はやはりマドンナでしょう)
 しかし、理由は他にもありそうです。それはイタリア系の移民に比べて貧しかったそうです。彼らは、そのほとんどが国での貧しさから逃れるために出稼ぎとして移民した人々だったのです。(裕福だったのは、やはり国自体が豊かだったイギリス系でした)そのため、貧しかった彼らは犯罪の道に進む場合も多く、その代表格がシチリア系移民たちが作り上げた犯罪組織マフィアです。その他、野球(ジョー・ディマジオ)やボクシング(ロッキー・マルシアノやプリモ・カルネラ、ロッキー・バルボアもそうでした・・・)など、スポーツの世界でも黒人が進出するまでの間、最も活躍していたのは、やはりイタリア系、それとアイルランド系でした。そうそう、スパイク・リーの最高傑作「ドゥー・ザ・ライト・シング Do The Right Thing」に出てきたイタリアン・レストランの壁にかかっていたヒーローたちは、まさにそんなヒーローたちばかりでした。

<黒いフィーリングの秘密>
 ヤングラスカルズが、なぜあれだけ黒いフィーリングを表現できたのか?そのヒントになるような逸話があります。彼らは音楽フェスティバルなどに出演する際、必ずその参加アーティストの中に黒人がいることを条件にしていたそうです。彼らはR&Bの生みの親である黒人への敬意を常に忘れず、彼らに活躍の機会を与えるよう気遣っていたのでした。そんな黒人音楽への「深い愛情」なくして、「黒いフィーリング」は生まれなかったのかもしれません。

<ブルー・アイド・ソウルの歴史>
 ブルー・アイド・ソウルの歴史は、ジェリー・リーバー&マイク・ストーラーという白人ソング・ライター・コンビをその発祥とし、彼らの曲を彼らに代わって歌った白人デュオ、ライチャス・ブラザースによって技術的に完成させられました。そして、その後を受けたヤングラスカルズは、コピーからもうひとつ上のランク、オリジナリティーをもつ独自のロックン・ソウルを築くことに成功しました。こうして、その後をジョー・コッカー、ロッド・スチュアートヴァン・モリソン、スティーブ・ウィンウッド、スリードッグナイトトッド・ラングレン、ホール&オーツ、ボズ・スキャッグス、ポール・ヤング、シンプリイ・レッド、ポール・ウェラー、ワムなどなど多くのアーテイストたちが受け継ぐことになるわけです。

<締めのお言葉>
「人気のあるライチャス・ブラザースの得意とする青い目のソウル・ミュージックは、その母型である茶色の目のゴスペル音楽とほとんど見分けがつかない。「ビッグ・ビート」の放送を聞いていても、だんだん白と黒の出演者を聞き分けるのが難しくなってきた。その主な原因は、黒人アーテイストの多くが、素材とするブルースとゴスペル様式から粗野な性格を削り落として行く一方で、多くの白人芸人が、黒人ヴォーカルのアクセント、語型変化のパターン、フレージングなどを完璧にこなすようになってきたことにある」

チャールズ・カイル著「都市の黒人ブルース」より

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