- 松任谷由美 Yuming -

<ユーミンを求めていた女性たち>
 1980年代の中頃、僕は当時付き合っていた女の子に誘われてスキューバ・ダイビングを始めました。当時まだスキューバ・ダイビングはブームになる前で、その子が茅ヶ崎に住んでいて海が好きでなければ、僕は一生スキューバ・ダイビングに出会はなかったかもしれません。ライセンスを取りに行きたいという彼女に誘われて断りきれなくなった僕は、しかたなく彼女と一緒に泊まり込みの合宿に参加、なんとかライセンスをとることが出来ました。ところが、いつの間にかその子とは別れることになり、気がついたら僕が一人でスキューバにはまってしまっていたのでした。
 さて、こうして始めたスキューバ・ダイビングの世界で、僕はいろいろな面白い人たちと出会いましたが、中でも女性たちには個性的な人が多かった気がします。と言うより、その世界では女性たちの方が幅を利かせていたと言うべきでしょう。しっかりとした仕事をもち、結婚に憧れているわけでもなく、自分の時間を自分の使いたいように使うという一人前の女性たち。当時の言い方だと「自立した女たち」がその主役だったように思います。(インストラクターも女性がけっこう多かった)僕のように就職して間がない若造から見ると眩しいぐらいの素敵なお姉さまたちにとって、海の中は静かな癒しの空間であり、日常の喧噪を忘れることの出来る隠れ家でもあったようです。(職業で言うと、ワープロ、パソコンのインストラクターや看護士さんなど、資格をもつ人たちが多かったような気がします。・・・実は僕の奥さんも看護士で海で知り合ったのです)
 今思えば、そんな素敵な女性たちこそがユーミンの音楽を最初に理解し、ファンとして支えることになったような気がします。

<ユーミン以前のポップス界>
 ユーミンが登場する以前、ポップスの世界は完全に男性がその中心でした。歌謡曲、演歌は当然のこと、フォークやニューミュージックの世界でも、歌い手は別としてその作者の多くはやはり男性でした。(当時の人気アイドル歌手たちについても、南沙織の曲以外、山口百恵、桜田純子、森昌子、麻丘めぐみなどの曲もみな男性作家の手になるものでした)したがって、当時のヒット曲は歌い手や歌われる対象が女性であっても歌詞に登場する女性像は男性の作家が生み出したものでした。しかし、その頃社会にはそれまで存在しなかったまったく新しい女性像が生まれようとしていました。それが、当時の高度経済成長と急激な核家族化、そして結婚感の変化によって生まれた前述の女性たちだったのです。そうした新しい個性をプロとは言え、男性の作家がそう簡単に描き出せるわけはないし、まして彼女たちの心の中を知ることなどできるわけもありませんでした。
 新しい時代の女性たちは自分たちの心を表現してくれる新しい個性が現れる時を待ち続けていたのです。では、そんな女性たちの心をしっかりとらえたユーミンこと松任谷由美とはいったいどんな女性なのでしょうか?

<時を超え、60年代に生きた少女>
 荒井由美は、1954年1月19日八王子市にある呉服店の4人兄姉の次女として生まれました。カトリック系の幼稚園に通い、教会で讃美歌を歌う少女でしたが、ピアノと同時に三味線も習うことで、より複雑で幅の広い音楽的感性を身につけてゆきました。(「ベルベット・イースター」はまさにそんな日曜学校通いの少女の歌です)そうして身につけた優れた感性は彼女が高校に入ると早速活かされることになります。お茶の水の美術学校に通いながらも、夜は六本木のディスコで朝まで踊るというライフ・スタイル。これはもしかすると、1980年代バブル期に訪れることになる女性たちのライフ・スタイルをいち早く実践していたと言えるかもしれません。さらに彼女はそうした生活の中で当時のGSムーブメントを支えていた音楽関係の人々と交流をもつようになり、彼らから「ユーミン」というニックネームをもらったりしています。ついには15歳の時に彼女が作曲した曲「愛は突然に」が、タイガースを脱退してソロ活動を開始したばかりの加橋かつみによってレコーディングされることになります。彼女は時を超えた遙かな過去、60年代のヒーローたちから多くを吸収していたわけです。

「ブルジョア育ちの彼女もまた、豊かな時代の”みなし児”の一人だった。
小さい頃は神様がいて
不思議に願いをかなえてくれた
『やさしさに包まれたなら』の一節に明快なように、ユーミンの歌の世界は、神様の庇護を失った”みなし児”の『私』が、大胆に自己を肯定し、解放できる魔術的な空間が用意されている。」

高澤秀次「ヒットメーカーの寿命」

<音楽活動開始>
 その後、彼女は多摩美術大学に入学、日本画を専攻すると同時に音楽活動を本格的に開始します。彼女の音楽的感性は、すでに60年代から活躍してきたミュージシャンたちから多くの刺激を与えられただけでなく、現実に彼らと共演をすることでより奥の深いものとなりました。しかし、彼女はその中で自分と彼らとの違いについてもしっかりと認識をしたようです。実際、彼女の音楽と60年代の延長線上にあった四畳半フォーク(なんとこの名前をつけたのはユーミンだとのことです)は、その後まったく異なる世界観のもとで発展して行くことになります。そして、そんな彼女の感性は彼女同様60年代の感性とは異なるものをもった男たちと出会うことで、歴史を越える名曲の数々を生み出すことになるのです。

<伝説のバンク・バンド、キャラメル・ママ>
 キャラメル・ママ、J−ポップの歴史に名を残す伝説のバンドは、ユーミンのバックを務めた当時まだほとんどその名を世の中に知られていませんでしたが、それぞれがミュージシャンとしてしっかりとした実力と実績をもつメンバーの集合体でした。元はっぴいえんどの鈴木茂(ギター)と細野晴臣(ベース)、それと小坂忠のバンド、フォージョーハーフのメンバーだった林立夫(ドラムス)と松任谷正隆(ピアノ)。しかし、それだけのスーパー・グループでしたが、彼らはバンド単独での活動はわずしかなく、細野のソロ・アルバムとユーミン、吉田美奈子のアルバムにおいてその評価を高めた後、その発展型とも言えるティンパン・アレーへと移行、より広いバンド活動を展開して行きます。
 彼らは荒井由美のデビュー・アルバム「ひとうき雲」「ミスリム」「コバルト・アワー」でバックを務め彼女のブレイクに大きな貢献を果たしました。それもただ単に彼女のバックで演奏をしただけでなく、曲作りにも大きく関わっていたようです。(モータウン・レコードにおけるファンク・ブラザースのような存在だったのでしょうか?)
 アーティストとバック・バンドのそうした関係は今でこそ珍しくありませんが、当時としては画期的なことでした。だからこそ、彼女の初期のアルバムは未だにまったく古さを感じさせないのです。そのサウンドを作ったのは、その後80年代と90年代のポップス・シーンを支えることになる男たちだったのですから。
はっぴいえんどを支えた「風都市」についてはここから!

<生活感を感じさせない音楽>
 彼女の曲の大きな特徴のひとつ、それは生活感の希薄さです。彼女の歌の登場人物は、恋に悩むことはあっても明日の生活費のことで悩むことはありません。彼女が悩むのは、週末をどう過ごすかということ、ドライブか、サーフィンか、スキーか、デートか?どこへ行こうか?誰と過ごそうか?今度こそうち明けようか?どんな服を着て行くべきか?どこのレストランで何を食べようか?などなどです。そして、そのストーリーの舞台は横浜、湘南、軽井沢、各地のリゾートなど、若者たち憧れの場所ばかりというわけです。
 彼女がデビューした当時、それらの歌で描かれた世界は、多くの人にとってまだ別世界の物語でした。しかし、1980年代「バブル」と呼ばれた時代が訪れると「ユーミンの世界」は多くの人々にとって、あっという間に身近な存在になっていったのです。(僕にとっても)
 実は、彼女のアルバム売上がピークに達するのは、100万枚以上売れた1989年の「Delight Slight Light Kiss」1990年の「Love Wars」1991年の「天国のドア」あたりですから、デビューして20年近くたって初めて彼女の人気はピークに達したということになります。
 そう考えると、彼女の曲は音づくりだけでなく歌詞の世界についても20年近く先を行っていたと言えるのかもしれません。
ニューミュージック時代についてはここから!

<癒しの声>
 以前、NHKのドキュメンタリー番組でユーミンがリポーターとしてモンゴルを旅し、現地で有名なホーミーの歌い手と交流するという企画がありました。ホーミーというのは、普通に用いている声とは別に特殊な方法で喉をならし、その二つを共鳴させることにより独特の音のうねりを生み出すものです。最近ではコマーシャルなんかでも使われてかなり一般的に知られるようになり、日本人でも独学でそれを歌えるようになったアーティストもいます。モンゴルの大草原を渡る風のように、ゆったりとうねる丘のように響く不思議な音楽は、多くの人にとって「癒しの声」に聞こえるようです。(ところで、僕はこういう音楽を都会のコンサート・ホールで聴くのはちょっと?です。民族音楽はやはり現地で聞くべきだと僕は思います)
 その番組ではホーミーを音響学的に分析する試みも行われたのですが、そこでたまたまユーミンの声も解析してみたところ、なんと彼女の声はホーミーの波形と近いことがわかったのです。そう言われてみると、彼女の声は微妙にビブラートがかかったような不思議な響きをもっているように思いませんか?
 どうやら彼女の声はそれだけで「癒しの効果」をもっているようです。なんと「癒しブーム」の遙か前から彼女は「癒しの女神」だったのです。

<素晴らしき伴侶との出会い>
 「声」「美しさ」「才能」「仲間達」「時代の追い風」・・・彼女はなんと多くのものを味方につけたことか!
 「いやいや、そこには彼女の隠された努力があるはずだ」そう言いたい方もいらっしゃるかもしれませんが、彼女の「努力」は多分「楽しみ」とイコールなのだと思います。おまけに彼女にはさらに強い味方が存在します。1976年に結婚し、その後ずっと共に仕事をするパートナーでもある存在、松任谷正隆氏を忘れてはいけません。彼は、彼女のデビュー・アルバムの録音に参加した時、「ひこうき雲」を練習していて、そのコード進行の斬新さに衝撃を受け、当然のように彼女との結婚を考えてしまったのだそうです。凄い話しです。天才同士の出会いとは、こういうものなのかもしれません。

<中島みゆきと松任谷由美>
 ユーミンと時代について語る時、もうひとり同時代のヒロイン、中島みゆきの存在を忘れるわけにはゆきません。ミュージシャン兼芸能評論家の近田春夫氏は「考えるヒット」の中で「ユーミンはさっぱり味、そして中島みゆきは激辛味へと向かいつつある」そう書いていました。
 アルバムを200万枚も売り上げてしまうユーミンの作品は、当然200万人もの人に受け入れられるような歌であることが求められます。逆に、シアター・コクーンで行われる中島みゆきのライブは、ドーム球場で行われるユーミンのそれと異なり数百人を対象としたものです。にも関わらず、「地上の星」があれだけの大ヒットになったというのもまた、バブル終了後の日本社会の変化をよく表しているように思います。それは、濃い味で少数のマニアの心を強烈につかむのか、さっぱりとした薄味で数多くのファンの心をまんべんなくつかむのか、そのどちらかを選択しなければ「勝ち組」にはなれないという時代性の現れなのでしょう。
 しかし、二人の女性はそんな時代の流れを上手に渡り歩いていると考えるのは間違っていると思います。二人は「旬の音楽」を作り続けているのではなく、彼女たち自身が常に「旬」なのだと僕は思います。ただし、聞く側にとっての旬は変わり続けます。ユーミンの大ファンだったうちの奥さんも21世紀に入ってからはユーミンの新作を買っていません。二人の子供達を育てる彼女にとって、ユーミン・ワールドが「旬」でないのは当然と言えば当然なのです。もちろん、僕にとっても「ユーミン・ワールド」よりは「プロジェクトX」の「オジサン・ワールド」の方がしっくりきます。
 ユーミンは自ら永遠にユーミン・ワールドを守る孤高の道を選んだのでしょうか?それとも、少しずつ変わり続けているのでしょうか?確かに、彼女の音楽性は少しずつ変わり続けています。いつかまた僕やうちの奥さんの「旬」と一致する時があれば、・・・と思います。

<締めのお言葉>
「瞬間ごとに、自然は長い長い旅に出る。そして、瞬間ごとにその旅を終える・・・。彼女は過去も未来も知らず、すべては永遠に現在である。彼女にとって、現在は永遠なのだ」

ゲーテ

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