- 松田優作 Yusaku Matuda -

<昭和最後の武闘派ヒーロー>
 「太陽にほえろ!」、「探偵物語」、「最も危険な遊戯」、「人間の証明」、「陽炎座」、「家族ゲーム」、「ブラック・レイン」・・・どの作品も公開時もしくは放映時に見てきた僕ですが、それほど松田優作という俳優にはまっていたというわけでもありませんでした。それはたぶん、事件を頻繁に起こしていた武闘派的な彼の生き方に、いまひとつ感情移入ができなかったからかもしれません。今回、彼の伝記「越境者」を読んでいて、ふっと思いました。多分にそれが誤解によるものであることも、今回よくわかりました。表面的に彼の仕事を知ってはいても、その裏側にある彼の仕事へのこだわりや壮絶な努力については、ほとんど知らなかったのですから、当然でした。
 改めて、彼の「闘いの人生」を知ると、彼が40年しか生きられなかったのも当然のように思えてきました。それは余りに濃すぎるがゆえに、人の二倍、80年分生きるだけのエネルギーを必要としたのかもしれません。それでは、「昭和最後の武闘派ヒーロー」松田優作の40年の人生に迫ります。

<生い立ち>
 松田優作は、1949年(昭和24年)9月21日山口県下関市の朝鮮系が集中して暮らす今浦町に生まれました。彼の父親は長崎出身の保護司で地元に妻子がいました。彼は家を出て優作の母、かね子と暮らしていたのですが、彼女の妊娠を知ると逃げるように長崎に帰ってゆきました。
 かね子は韓国籍の在日一世で、戦争でこの世を去った同じ韓国籍の夫、武雄との間にすでに二人の息子がいました。優作少年は、そうした生い立ちを10歳になるまで知らず、自分が外国人登録証明書をもつ「金優作」という戸籍上の名前を持っていることも知りませんでした。
 当時、在日朝鮮人の女性がひとりで3人の子どもを育てるのは大変なことでした。そのため彼女は、二階の部屋を娼婦に貸したり、闇市の行商や質屋などの仕事をしたものの結局上手くゆかず、姉夫婦が営んでいたのと同じ売春宿を自宅で始めました。彼の家の周辺にはそうした売春宿が集中しており、それはある意味自然な仕事だったともいえます。そうした家の仕事について理解し始めた彼は、早く大人になって家を出たいと考えるようになりました。
 それでも母親のかね子は、そんな優作をかわいがり、彼が生い立ちについて引け目を感じないように大学に進学させようとしていました。しかし、彼の負っていたハンデはそれだけではありませんでした。
 彼は小学生の頃、自転車に乗っていて転倒した際、腎臓を痛めてしまい、その時、治療を怠ったために結核となり、片方の腎臓が機能しなくなっていたといいます。このことが、後に彼の寿命を縮める原因となります。

<ケンカと進学>
 子どもの頃から差別されいじめられる立場にあった彼は、幸い父親譲りの体格と強さをもっていたことから、ケンカで負けることはなかったといいます。さらに高校時代には、道場に通って本格的に空手を学び、「鬼に金棒」となります。しかし、後にこのケンカの強さもまた、様々な事件の原因となります。金棒が、彼の首を絞めることになったのです。
 彼は高校二年生の時、アメリカに留学します。母親の妹がカリフォルニアに移住していたため、優作を彼女の元に預け、彼を弁護士にさせようと考えたうえでの留学でした。それはアメリカなら、日本に比べると国籍を得やすいと考えてからでもありました。優作自身も、下関から出られるならと考えて同意したのですが、アメリカで彼は日本以上の差別に苦しめられることになりました。結局、彼は一年たたずに日本に逃げ帰り、東京に出ていた兄のもとから高校の夜間部に通うことになりました。
 彼は高校の卒業文集に「朝」という詩を載せています。

それは決して静かなものではないのだ
騒いで騒いで暴れ狂った跡なのだ
決して壮厳といわれるべきものではないのだ
はかなさを、むなしさを
かなしみも、淋しさも
一心にひめてあれ狂った姿なのだ
朝は無表情だ
奴にとって過去など問題ではない
だからオレ達は、奴の過去が何であったかを知らない
奴の一つの大きな気狂いの足跡にしか匹敵されない
美か、静か、動か、狂か、そこに愛がふくまれるなら - 奴は未来にむかう
だからオレ達も少しの躊躇もせず美に、静に、動に、狂にそして愛に 足を合わせるのだ

<大学進学と演劇活動>
 1970年、彼は関東学院大学文学部に入学します。しかし、この頃、すでに彼は映画、それもアクション映画にはまっており、アクション・スターを目指し俳優になろうと決意していました。
 1971年、彼は俳優としてデビューするため、俳優、金子信雄が主催する演劇塾「新演劇人クラブ・マールイ」に入所します。そこで彼は後に妻となる女優、美智子と出会うなど演劇界の人間関係をスタートさせています。(この時、一期上には、柄本明がいました)
 1972年、マールイを卒業した彼は、演劇人憧れの「文芸座」養成所の入学試験に合格します。さらに彼は、文芸座の授業とは別に仲間たちと「F企画」という演劇集団を結成。そのメンバーたちで公演を行い始めます。このF企画のメンバーはその後も長く彼と付き合いを続けることになります。さらに「文芸座」に入ったことで彼は大きなチャンスをつかみます。それはテレビドラマ「太陽にほえろ!」への出演でした。
 そのきっかけは、彼が文芸座の先輩、村野武範(「飛び出せ青春」で有名な青春スター)にマージャンでかなりの貸しを作ったことでした。村野は後輩の彼にその借りを返すため、「太陽にほえろ!」に出演できるよう役をもらってきてくれたのです。それは、あの「ジーパン刑事」の役ではありませんでしたが、端役とはいえ、その撮影で見せた彼の個性的な演技は高く評価されることになりました。そして、彼にあの「ジーパン役」が回ってくることになりました。

<ジーパン刑事誕生!>
 1973年7月20日、「ジーパン刑事登場!」で彼は本格的に俳優としてデビューを飾ることになりました。ちなみに「太陽にほえろ!」の中で彼は、数少ない生涯の友のひとりとなる俳優、水谷豊と出会っています。
 一躍スターの仲間入りを果たした彼は、この年、日本国籍に帰化するための申請を行い、当時としては珍しい4ヶ月という短期間で許可を得ることができました。
 1974年8月30日、「ジーパン・シンコ・その愛と死」で彼は「太陽にほえろ!」の出演を終えます。彼は当初からジーパン刑事を長く続けるつもりはなく、一年で降板し、次の仕事にのぞむと宣言していました。それは彼の上昇志向の表れであり、そのおかげで彼はあの有名な壮絶な死の名場面を生み出すことができたともいえます。ちなみにその時の有名なセリフ「なんじゃ、こりゃあ!」は、彼自身が考えたもので、彼の故郷「山口県」のなまりをもとにしているとのことです。

<映画への出演とトラブル>
 1974年、彼は黒木和雄監督の代表作のひとつ「竜馬暗殺」に出演しています。この映画で共演した俳優たち、原田芳雄、桃井かおり、石橋蓮司とは、その後彼が死ぬまで長く付き合い続けることになります。こうして、彼の映画界での活躍が始まりますが、その一方ここからトラブルに巻き込まれる波乱の人生が始まることにもなります。
 1974年3月、彼は取材に来ていた情報雑誌の記者に暴力を振るったと、スポーツ新聞に書かれます。これは実際には、暴力といえるほどのものではなく、押し問答の中で記者がカメラを落としてしまった程度のものでした。
 しかし、翌年、彼は再び同じ雑誌の記者を新宿のバーで殴ったとして警察で事情聴取を受けることになりました。これもまた怪我人がでたわけではないのですが、彼のマスコミに対する態度が、あまりに「生意気」だということから、しだいに「松田優作=暴力俳優」というイメージがマスコミによって作られることになります。
 同じ年、彼は中村雅俊との共演で「俺たちの勲章」に出演します。ところが、この番組の地方ロケで再び事件が起きてしまいます。場所は鹿児島。ロケを終えた打ち上げで、番組スタッフのひとりが地元のOLと親しくなり、その子と二人で別の店に行こうとしました。ところが、その子の友人の女性が二人について行こうとしたため、優作が野暮な事は止めろと制止。そのため二人が口論になりました。そこへたまたま通りかかった地元の予備校生が、女性に彼が乱暴しようとしていると思いケンカになってしまったようです。(さすがは九州男児。あの松田優作に挑んだ勇気に感心します)
 過去の事件のことを思えば、まわりのスタッフや俳優たちが、彼をなぜ抑えなかったのか、不思議だし、本人にもそのぐらいの自覚があっていいはずです。それでも、この事件は優作がケンカの相手に治療費と慰謝料を支払うことで示談が成立したので大事にはならずにすみました。ところが、この事件は世間に再び「暴力俳優・松田優作」のイメージを思い出させ、それを利用しようとする人物を登場させることになります。
 この事件は民事では示談が成立しましたが、当事者ではなく検察が事件に注目、なんと彼を起訴し、逮捕してしまったのです。彼はこの裁判で有罪となり、懲役10ヶ月、執行猶予3年の判決を受けます。この時、事件を担当した検事は、松田優作の名前を見て、自らの手柄のためにあえて彼を起訴したといわれます。検察官としての功名心が元になっていたことは明らかでした。さらに彼は、公判中に優作の妻を脅すなど、違反行為を行ったことも明らかになり、その後すぐに、検察庁によって左遷されたといいます。
 悪辣な検事の犠牲になった彼は災難でしたが、「松田優作=暴力俳優」というイメージを生み出した原因が彼にあったのも確かです。今なら彼が俳優として、復帰できない可能性もあったかもしれません。幸いにして、彼には支持者がいました。そのおかげで、裁判の判決が出た2ヵ月後、彼は岡本明久監督の映画「暴力教室」出演することができ、意外に早く活動を再開することができました。彼は、その映画では珍しく教師役となり、相手役の暴力生徒役は舘ひろしが演じました。
 さらに次の出演作は、テレビ・シリーズ「木枯らし紋次郎」の大ヒットにより、映画を撮るチャンスを得た大洲齊のデビュー作「ひとごろし」。臆病者の侍が汚名をそぐために、剣の達人の上意打ちに挑戦するという異色の時代劇は、彼にとってはいつもの真逆の役どころとなりました。そうした作品に挑戦するあたりは、彼が単にアクション俳優で終わるつもりがないことの証明だったのでしょう。この役は、松田優作が暴力的演技だけが売りの俳優ではないことを示そうという試みでもあったのかもしれません。ある意味、このあたりは彼の「暴力イメージ」を払拭するための無理な役どころだったともいえるかもしれません。

<「人間の証明」>
 次にオファーがあったのは、当時、映画界に旋風を巻き起こしていた角川映画の第二弾「人間の証明」でした。この映画では、日本映画界初の試みとなったアメリカ・ニューヨークでのロケが行われました。しかし、ハードなスケジュールと地元スタッフとの打ち合わせ不足により撮影は難航。監督にも主演の彼にとっても、それは満足のいく撮影とはなりませんでした。
 そうした厳しいスケジュールの合間に彼には長女が生まれ、さらには同時進行でテレビ・シリーズ「大都会 PartU」の撮影も入るなど、休む暇もない日々が続いていました。そうした苦労の中で完成した「人間の証明」でしたが、彼はこの映画に到底満足できませんでした。さらにこの映画のプロモーション活動の忙しさにもウンザリした彼は、その後、同じような刑事ものやアクションものへの出演オファーを受けなくなります。

<「最も危険な遊戯」>
 アクション映画への出演にウンザリしていた彼ですが、そんな彼の考えを変える人物が現れます。それは東映から出て、東映向けのプログラム作品を製作するための会社「セントラル・アーツ」を立ち上げたばかりの若手企業家、黒沢満でした。黒沢からの誘いにより、彼は再び娯楽アクション映画に出演することになり、そのおかげで、二人のコンビによる大ヒット作「最も危険な遊戯」が生まれ、その後も「殺人遊戯」「蘇える金狼」「処刑遊戯」「俺達に墓はない」「野獣死すべし」「ヨコハマBJブルース」「探偵物語」そして自ら監督に挑んだ「ア・ホーマンス」が次々発表されることになりました。
 その第一作目となった「最も危険な遊戯」は、彼にとって黄金時代を象徴する作品となりました。製作費3000万、撮影日数2週間、スタジオを使わないオール・ロケーション撮影という厳しい条件で作られたこの作品は、無駄な贅肉を極力取り除くことで、逆にB級映画の世界に活路を見出すことになりました。さらにこの作品は、彼とのコンビで多くの作品を撮ることになる村川透監督との最初のコンビ作でもありました。そして、この映画の主人公「鳴海昌平」のストイックでコミカルなキャラクターもまた、その後の彼にとって大切な存在となります。「人間の証明」という大作映画ではできなかった自由な作品づくりは、彼に再び映画を作る喜びをもたらしました。

<ミュージシャン松田優作>
 元々ジャズが好きで、フリージャズからスタンダード・ジャズまでかなりのレコードを収集していた彼は、ジャズ以外の音楽も大好きでした。日本のアーティストの中では、宇崎竜堂や柳ジョージのファンだったという彼は、元テンプターズのヴォーカリスト、ショーケンこと萩原健一のライブに感動。本格的にヴォイス・トレーニングをうけた後、ミュージシャン、ヴォーカリストとしてアルバム「Uターン」を発表します。ライブ活動も行い、独特の声をもつブルース歌手として、ヒット曲こそないものの、それなりの存在感を発揮しました。新しい刺激を求める彼は、常に新たな何かに挑戦していなければ気がすまないタイプだったのです。正直、歌はけっして上手くはありませんでしたが、味はありました。

<独自キャラクターの創造>
 1980年、村川透監督作品「野獣死すべし」に主演することになった彼は、主役のキャラクターに合わせて体重を73キロから65キロまで落としました。前作の「蘇える金狼」では、肉体美を見せるために厳しいトレーニングと肉食の繰り返しだっただけに、真逆ともいえる変身は彼の精神状態までも変えてしまうほどだったといいます。こうした役柄への入れ込みは彼の得意とするところでしたが、そのたびに彼は肉体的、精神的に大きなストレスにさらされ、それが体内へのダメージを蓄積する結果につながったかもしれません。
 同じ頃、彼は大ヒットしたテレビ・シリーズ「探偵物語」にも出演。あの「工藤チャン」もまた、彼が生み出した代表的なのキャラクターのひとつです。同時期にこれだけの人生を同時に生きていたのですから、そのストレスは半端ではなかったでしょう。さらに彼はこの時期「探偵物語」で共演した若手女優、熊谷美由紀(現在活躍中の松田兄弟の母親)と愛し合うようになり、それまでの妻、美智子夫人と離婚することになります。この離婚問題のゴタゴタの中、彼は次なる作品「陽炎座」に出演しています。
 アクション・シーンもなく泉鏡花の文芸作品の映画化ということで、彼にとっては新たな松田優作を見せるチャンスと張り切っていたものの、巨匠、鈴木清順は彼に自由な演技を許さなかったため、彼にとって満足の行く作品となならなかったようです。しかし、作品の出来栄え自体は素晴らしいものだったと僕は思います。
 彼は巨匠と呼ばれる監督の作品、深作欣二、吉田喜重、工藤栄一らの作品では、どうしても思い通りの演技ができず、逆に若手の監督作品の方が自分の意見を言える分、のびのびと演技ができ結果的にも良い作品になっています。その代表が村川透監督との「遊戯シリーズ」や森田芳光監督の傑作「家族ゲーム」でした。

<仕事選びのこだわり>
 次々と映画に出演していた彼は、当然出演作品を選ぶようになっていました。断った作品の中で有名なのは、伊藤俊也監督の「誘拐報道」です。この作品は、自分の息子の友だちの小学一年生を誘拐し、身代金を要求した男の実録ものでした。彼は別れた妻との間に生まれた長女への愛情から、犯人の気持ちに到底なれないと、出演を断ったということです。
 映画命の彼にとってテレビの仕事は、当然、優先順位は低くなりました。それでも、当時テレビ界をリードしていた向田邦子原作のドラマとなれば、話は別だったようで、彼は彼女の原作によるスペシャル・ドラマ「春が来た」に出演しています。テレビ界を代表する巨匠、久世光彦演出のそのドラマには、彼の盟友の一人桃井かおりも出演していました。
 彼女は、撮影が始まっても、明らかにテレビ・ドラマを馬鹿にして本気を出さない松田優作に対し、楽屋で「やる気がないなら帰ったら!」と怒鳴りつけたといいます。すると、その夜、彼は桃井かおりに電話をしてきて、「脚本を読み直したが、いい本だとわかった。今から取り返すから・・」と謝ったそうです。こうして、向田邦子スペシャル・ドラマの中でも指折りの名作が生まれました。

<病との闘いの始まり>
 1975年、彼は子どもの頃から悪かった真珠腫瘍中耳炎の手術を受けました。この病気はかなりの痛みをともなうもので、彼はその痛みを抑えるために抗生物質を病院に行かずに入手して飲んでいたようです。しかし、こうした抗生物質の常用は体内の免疫力を低下させることになっていたはずです。そのうえ、彼の持っていた片方だけの腎臓も長年にわたる酷使によりかなりのダメージを受けていて、それが原因となって痛風を発症。病院嫌いの彼は、その痛みを抑えるためにさらに抗生物質の量を増やしていました。こうして、彼の腎臓は確実に弱っていったものと思われます。
 1986年、彼は「ア・ホーマンス」でついに監督業に進出します。しかし、この映画の撮影中、彼は血尿に気づき、病院で診察を受けました。ただ、この時の診断は無症候性血尿とされ、特に大きな病ではないと判断されています。ところが、1988年、再検査したところ、その血尿の原因は、膀胱内部にできた癌によるものだったことが判明します。そして、この時すでに、彼の膀胱の1/4が癌に冒されていて、リンパ腺への転移の可能性も疑われる状況だったといいます。

<闘病と「ブラック・レイン」>
 癌の存在が明らかになった頃、彼のもとに世界的巨匠リドリー・スコットからの出演オファーが来ました。映画「ブラック・レイン」への出演依頼です。世界進出の絶好のチャンスを逃すわけには行かないと判断した彼は、病院から薦められていた入院治療を断ります。もちろん入院することは、映画からの降板を意味するだけでなく、たとえ治療を行うにしても、膀胱の切除により、人工膀胱、人工肛門を付けなければならず、彼の俳優としての活躍の場は一気に狭められることになるのは明らかだったからです。
 結局、彼は「ブラック・レイン」に出演するため、手術ではなく抗癌剤による通院治療を選択。さらに副作用による体力の低下がないように、強い抗癌剤の使用も避けることになりました。もちろん、そうした対応で癌が良くなるわけはなく、映画の撮影が始まり、日本でのロケが終了した時点で、すでに癌は膀胱以外の臓器にも転移していたといいます。
 ニューヨークでのロケの間にも、彼の症状はどんどん悪化していました。そのため、彼は自分の血尿を見られることを恐れ、他人の前で絶対にオシッコをしなかったといいます。当時、彼は自分が癌であることを、映画のスタッフだけでなく、親しい友人や俳優仲間にさえも秘密にしていました。
 1989年3月、映画「ブラック・レイン」の撮影は無事に終了しました。

<最後の闘い>
 アメリカからの帰国後、彼はすぐに病院で検査を受けますが、その時、すでに彼の病状は手術不可能なところまで進んでいました。医師から入院して本格的な抗癌剤による治療を薦められますが、彼はそれも拒否し、村川透監督とのコンビによるテレビのスペシャル・ドラマ「華麗なる追跡」の撮影にのぞみます。
 このドラマで彼は、あのオリンピック金メダリスト、フローレンス・ジョイナーとの共演を果たします。しかし、彼女は後に薬物の常用によるドーピングが明らかになり、その薬物の常用が原因と思われる心臓発作により、1998年わずか38歳という若さでこの世を去ることになります。
 彼はこの時期、ある新興宗教にはまっていて、その教祖のマインドコントロールのもとにあったとも言われています。もしかすると、彼は自分は宗教の力によって癌を克服できると信じていたのかもしれません。なぜなら、彼は闘病中も、そこから先の仕事を常に受けていて、自分は治ると信じていたと思われるからです。逆に考えると、彼ほどの自信の持ち主ほど、マインドコントロールにはまるりやすかったのかもしれません。
 しかし、少なくとも、そうした治癒するはずだという信念を持っていたからこそ、彼は厳しいアメリカでの撮影の乗り切ることができたのでしょう。それとも、膀胱を捨てて、新たな松田優作を創造するべきだったのか?
 この頃、彼はロバート・デニーロから出演のオファーを受けますが泣く泣く断ったといいます。さぞかし悔しかったことでしょう。もう治療の方法はなく、9月21日に40歳の誕生日を迎えた彼はその1週間後に入院するものの、モルヒネにより痛みを減らすことしかできず、11月には危篤状態となりました。そして、11月6日午後6時45分、彼は静かに息を引き取ったのでした。

<凝縮された40年の人生>
 彼のわずか40年の人生は、同じ朝鮮出身のヒーローである力道山の波乱万丈の短い人生を思い起こさせます。相撲界で受けた差別による屈辱をバネにプロレスだけでなくビジネス、政治にまでその活躍の場を拡げていった力道山の驚異的なパワーは、自らの命をも縮めてしまいました。そして、松田優作という俳優もまた、その有り余るパワーゆえに、生き急いだヒーローでした。
 そうした彼から見ると周りの人間たちの生き方は、なんとも覇気のないものに見えていたのでしょう。彼は周りの人間にも、自分と同じように命がけで生きることを要求し続けました。そのために、彼は多くの友人を失い、その不満から様々な暴力事件を起こしたのかもしれません。

「あの人は、自分がある感じ方とか、生き方のレベルが上がったときに、そこに来ない奴が嫌いなの。こっちは、そのときは同じようなレベルで上がっていないから、わかんないわけ。あの人の凄さってあったと思うけど、それでも、もうちょっと人の痛みをわかったらいいんじゃないか。そこだけは嫌いなの。人それぞれじゃないか」
山西道広(「探偵物語」など様々な作品で共演したF企画のメンバー)

<その後の影響>
 彼の映画の中での演技は、その後多くのフォロアーを生むことになりますが、直接、彼と付き合った人々の中には、彼の内面や生き方から大きな影響を受け成長していった人もいます。
 彼はまわりの人間たちに常にプレッシャーを与える存在でした。そのために多くの人間は彼から離れてゆきましたが、逆に彼に付き合うことのできた人間はその後も長く活躍を続けることになりました。その中の一人、脚本化の丸山昇一は、松田優作という強烈な個性につき合わされ常にクタクタの状態でした。彼は、優作の死を知った時、こう思ったそうです。

「電話を聞いて。僕はどうしたと思いますか。
『やったよ、この野郎。よく死んでくれた。これで長生きできる!』とガッツポーズをとったんです。それで、次の記憶はお通夜で、原田芳雄さんとか豊ちゃんとかと、まあ、なんでもない話をして、死に顔も拝ませてもらって、苦悩から解放された仏の顔だったから、
『ああ、解脱したんだなあ、こんな素直な顔見たことがない』と思って、それで二階から下りて、下の部屋で芳雄さんと話をしていたんだけど、急にプツンと記憶がなくなった。・・・」

丸山昇一(脚本家)

 最後は女性としてではなく、同じ役者として生涯付き合い続け、彼の死後、一人でアメリカに渡り、ハリウッド映画に出演。さらに「無花果の顔」で初監督に挑戦し、ベルリン映画祭で最優秀アジア映画賞を獲得するなど高い評価を得た女優、桃井かおりさんの言葉で締めたいと思います。

「俳優って、伝説的になるために、悲劇的であろうとするところがあるけど、優作のように加害者っぽく言われながら、でも、長生きするのが普通の流れなのよ。それが死んじゃったんだから、驚いた。やられちゃったという思いがある。私はいいタイミングで死にたいというのが中毒みたいになっていたけど、あれからだよね、生き方を選んだのは。活性化しちゃったというか」

「優作が『ブラック・レイン』をやっていなければ、私も『SAYURI』はやらなかったと思う。向こうの映画に出るなんてことは、面倒くさいじゃない。恥かくかもしれないし。でも、向こうへ行って、本当に一人ぼっちだったんだ私。付き人連れて奴がどれだけ格好悪いか、って話をずいぶんしたから、一人で行って、車を借りたり、バスに乗ったりして、動いてた。相当話かけたよね、優作に。
『こういうことどうするのよ、どうしたのよ君は』とか」

桃井かおり

<参考>
「越境者」 2008年
(著)松田美智子
新潮社

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