鉄のカーテンに覆われた国で |
<政治的映画の専門家>
政治問題を扱った映画を得意とする映画監督は、昔から多くはありません。社会問題を扱うことを得意とする監督なら、シドニー・ルメット、オリバー・ストーン、エリア・カザン、アンジェイ・ワイダ、フレッド・ジンネマン、ロベルト・ロッセリーニ、アーサー・ペンなどを挙げることができます。しかし、あくまで政治問題となると、この作品の監督であるコスタ・ガブラスに匹敵する監督は同じギリシャ出身のテオ・アンゲロプロスぐらいしかいないでしょう。民主主義の国アメリカでは、「大統領の陰謀」のアラン・J・パクラが近いくらいでしょうか。
自分の国の政治ですら、なかなか把握できていない観客を前に見知らぬ国の政治問題を理解させ、なおかつ主人公に感情移入させるのですから「ボーイ・ミーツ・ガール」映画とはわけが違います。そんな離れ技を見事にやってのけたコスタ・ガブラスの代表作「Z」は、未だまったく古くなることなく輝きを放ち続けています。しかし、それは残念なことに「Z」に描かれた軍事政権によって管理された社会が21世紀の地球上に未だ数多く存在していることの証でもあります。
<鉄のカーテンの下で>
1963年5月ギリシャのアテネ大学の教授で左派の国会議員だったグレゴリウス・ランブラスキ氏が米原子力潜水艦の寄航に反対する集会で演説した後、交通事故による突然の死をとげました。当時のギリシャは、ソ連そして東欧の共産圏に対する反共の盾としての役目を負わされて、アメリカの支持を受けた右派が政権を握っていました。そのため、この謎の事故の裏には、政府の関与があるのではないか?という噂が広がっていました。ギリシャを逃れパリに亡命した作家のヴァシリス・ヴァシリコスはこの事件を調査し、それをもとに「Z」という架空の国を舞台にした小説を書き上げました。したがって、この映画はギリシャを舞台にして起きた限りなく真実に近い物語と考えられるわけです。
当然、ギリシャ政府はこの映画をギリシャ国内で上映禁止処分としましたが、それは自らこの映画が描いている事件への関与を認めたことになるようにも思えます。
1960年代初め、世界は「鉄のカーテン」によって大きく二つに分断されていました。そして、その中で最も悲劇的な立場にいたのが「鉄のカーテン」の目の前に暮らす人々でした。アジアでは朝鮮半島、インドシナ半島。南米ではニカラグアなど中米地域。そして、ヨーロッパではバルカン半島、そしてこのギリシャは当時常に紛争に見舞われていました。
ギリシャは、1930年代から1940年にかけては軍事独裁政権によって支配され、第二次世界大戦中はドイツによる支配を受け、解放後はイギリスを中心とする占領軍の支配下となり、独立後はすぐに右派、左派が対立する紛争が勃発。この後、1967年には再び右派軍事政権による支配が始ることになります。当時は、まさにその混乱の真っ最中だったわけです。
この時代のギリシャについては、同じギリシャ出身の監督テオ・アンゲロプロスのギリシャ現代史三部作「1936年の日々」(1972年)、「旅芸人の記録」(1975年)、「狩人たち」(1977年)によって詳しく描かれています。
<コスタ・ガブラス>追記2017年7月
この映画の監督コスタ・ガブラス は、1933年2月13日ギリシャのアテネで生まれました。母親がギリシャ人で、父親がロシア人の政府の役人でしたから、元々政治、それも左派との関わりがあったわけです。彼は18歳までギリシャで育ち、1952年パリのソルボンヌ大学の文学部に入学します。この頃から映画館に入り浸るよういになり、大学を中退して映画高等研究所に入り、本格的に映画監督への道を歩み始めます。アンリ・ヴェルヌイユ、ルネ・クレマンやジャック・ドゥミーらの助監督をつとめた後、1965年「七人目に賭ける男」で監督デビューを飾りました。
「Z」は彼にとって3作目の作品でしたが、故国ギリシャの軍部によるクーデターから始まった右傾化を告発するため、強い決意をもって臨んだ作品でした。イヴ・モンタン、ジャン・ルイ・トランティニャン、ジャック・ペランをはじめ多くのヨーロッパの大物俳優たちが出演しています。俳優たちはみなファシズム的なギリシャの右派政権を糾弾する作品の趣旨に賛同、低予算の作品なため、ノーギャラでの出演を志願しています。
しかし、明らかにギリシャ政府を批判する内容なため、ギリシャ国内で撮影することは困難でした。そのため撮影は似た風景があるアルジェリアで9週間に渡って行われることになりました。設定も架空の国を舞台にした物語とすることになり、事実にこだわらずに作ることも可能になりましたが、けっして、物語をハリウッド映画のようにドラマチックにヒロイックに描くことうぃ彼は考えていませんでした。
映画の公開後、一部には映画の中の右翼の登場人物像がマンガ的との批判もありましたが、それに対し彼はこう答えています。
「私が右翼の悪者たちを創り出したのではなかった。彼らはあんな風であったのであり、それをそのように描かないとすれば、それは歴史的現実を無視することになるであろう。・・・」
彼の作品すべてに共通するのは、政治的なテーマを扱いながら、そのストーリー展開にはサスペンス映画の要素を強く感じさせることです。「Z」の場合も、謎の死をとげた議員の死までの数時間を過去に戻りながら少しずつ明らかにしてゆくことで観客を謎解きに参加させ、ラストまでぐいぐいと引っ張ることに成功しています。もしこの映画に描かれている事件がまったく架空のものだとしたら最高級のサスペンス娯楽映画ととらえることも可能なのです。
そして、もう一つ彼の作品には反ファシズムではあっても、けっしてひとつの偏った思想信条に、基づいてはいない客観性が保たれているということです。「Z」の場合も、謎を解く予審判事はけっして左派でも右派でもありません。あえて観客と同じ目線となるよう意識的に客観的な立場の人間を主人公に選らんだのでしょう。そうすることで観客は、ごく自然に映画に感情移入することができるのです。
彼はエンターテイメントとしての映画で描けるギリギリの線まで事実をドラマチックに演出し、観客を引き込んで話しませんが、史実を曲げずにギリシャで起きた不正を暴いています。そのバランス感覚の素晴らしさについて、フランスの映画評論家ジャン=ピエール・スーシーニュはこう語っています。
「商業路線の中で初めて、我々は本格的な軍事映画、戦いの映画、アクションの映画を見ることができた。アクションの映画だというのは、これが謀殺の陰謀の物語を語っているからだ。戦いの映画だというのは、これが体制の腐敗を、司法と警察のナレ合いを描いているからだ。軍事映画だというのは、体制の手中に入った軍事警察というものがどんなものかを我々に示しているからだ。しかもコスタ・ガブラスはあらゆるプロパガンダを排して、すべての人間に受け入れ易いような映画に仕立てあげたのである・・・我々はテオドラキスの音楽によって心をしめつけられながら、ギリシャ語の2という音を口にせずにいられない。Z、つまりその意味”彼は生きている”と」
当然かもしれませんが、この映画で彼が架空の国としてこの映画を撮ったことに満足していたわけではなかったようです。
「バシリコスの小説を、私はフィクションとドキュメンタリーの二面から捉え、ここで私はフィクションとして撮ったのが、いずれ時期が来たら今度は現地にロケしてドキュメンタリーとして撮りたいと思う。その時、私は多少なりとも暗殺に関係したあらゆる人物をとりあげるだろう。何ひとつとして消去せずに、すべてを描き切るだろう。暗殺の後に行われた不平のすべてをあばき立てるだろう。・・・」
ガブラスは、「Z」をフィクションとして撮っただけでなく、ノンフィクションとして、もうひとつの「Real Z」を撮るつもりだったようです。
彼の「ファシズムと闘う姿勢」と「娯楽性と客観性」にこだわる姿勢は、1982年アメリカ資本による映画「ミッシング」を生み出すことになります。左派よりとも思える作品「告白」(1970年)、「戒厳令」(1972年)を撮った彼が、そこで描かれているファシズム政権の後ろ盾でもあるアメリカで映画を撮るようになるというのは意外な気もします。しかし、「反ファシズム」の姿勢についてだけはアメリカは、右派、左派基本的にいっしょです。(少なくとも表面的には・・・)
そんなわけで、1982年の「ミッシング」以降、彼はアメリカを舞台に活躍することになります。
<ミキス・テオドラキス>
この映画の音楽がまた素晴らしい!サスペンス映画らしい緊張感に満ちた音楽でありながらギリシャの民族音楽風でもあり、一度聞いたら忘れられません。この音楽を作ったのは、やはりギリシャ出身の作曲家ミキス・テオドラキス Mikis Theodorakis でした。彼は1925年ギリシャのクレタ島に生まれています。アテネの音楽学校を卒業した彼は、その後イギリスに留学。ロンドンの名門王立音楽院で作曲とバイオリンを学んだ彼は、ロイヤル・フィル・ハーモニック・オーケストラやフィル・ハーモニック・オーケストラでバイオリン奏者として活躍。1959年彼は後に映画化もされたバレー「テルエルの恋人たち」の音楽を担当。人気バレリーナ、リュドミラ・チェリーナに演じられたこのバレーは大成功となり、彼は一躍人気作曲家となります。
1960年代に故国にギリシャに戻った彼はアテネで市民オーケストラの指揮者となり、その後ギリシャを舞台にした映画を中心に数多くの作品を手がけることになりました。この作品意外にもギリシャの軍事政権の裏側を描き出しポリティカル・ムービーの第一人者となったコスタ・ガブラス作品での仕事が有名です。その他の作品としては、「その男ゾルバ」(1964年)、「魚が出てきた日」(1967年)、「セルピコ」(1973年)、「戒厳令」(1973年)などがあります。
「Z」 1969年公開
(監)コンスタンタン・コスタ=ガブラス
(製)ジャック・ペラン
(原)ヴァシリス・ヴァシリコス
(脚)ホルヘ・センプラン、コンスタンタン・コスタ・ガブラス
(撮)ラウール・クタール
(音)ミキス・テオドラキス
(出)イヴ・モンタン、ジャック・ペラン、ジャン・ルイ・トランティニャン、フランソワ・ペリエ、イレーネ・パパス
レナート・サルヴァトーリ、マルセル・ボズフィ、シャルル・デネ
アカデミー外国語映画賞、編集賞、カンヌ映画祭審査員賞、主演男優賞(ジャン・ルイ・トランティニャン)、ゴールデン・グローブ賞外国語映画賞
<あらすじ>
某国の革新政党指導者(イブ・モンタン)がある夜謎の死を遂げます。警察は自動車事故によるものと発表しましたが、不審に感じたある予審判事(ジャン・ルイ・トランティニャン)が真相究明に乗り出します。彼は左派でも右派でもない中立の立場で独自の調査を行い、死体の後頭部には殴られた痕があり、死因はその衝撃によるものであることも明らかになります。被害者は当初演説をする予定だった場所を、何者かの指示により直前に変更させられていたことも明らかになりました。
なぜ、誰が場所を変えさせたのか?そして、誰が被害者を殺害したのか?
捜査を進めるに従い、その事件の裏には検察庁長官らによる大掛かりな陰謀があったことが明らかになってきました。国家規模の企みに迫るにつれ、判事の身にも危険が迫ります。真実を明らかにすることはできるのか?
「ミッシング」
「ミッシング」は、中米の架空の国を舞台に左派政権の転覆を図るアメリカ政府の動きを知ったアメリカ人青年が失踪するという作品です。その青年の父親(ジャック・レモン)が息子の行方を探るうちに、その裏にアメリカ政府(CIA)の陰謀があったことを知ることになります。もちろん、この映画ももまた実際にあった事件がモデルになっています。それは左派よりだったチリのアジェンデ政権がCIAを中心とするアメリカ政府のバック・アップを受けた右派によって武力で転覆させられた1973年の事件です。こうした作品を作ることができるアメリカという国は、確かに自由の国といえるかもしれません。そのおかげで、彼はこの後も「背信の日々」(1988年)、「ミュージック・ボックス」(1990年)、「マッド・シティ」(1997年)とアメリカを舞台に作品を作り続けています。
とはいえ、残念ながら「Z」のラスト・シーンのもつ衝撃度、ミキス・テオドラキスの緊張感にあふれた音楽、サスペンスに満ちたストーリー展開をどの作品も超えられていないように思います。どんなに客観的な映画つくりをしていたにしても、映画を撮った監督の熱い思い、キャスト・スタッフの熱い思いとが作品の質を高める最大の原因となるのでしょう。やはり素晴らしい作品を生み出すのはには時代の状況が大きく関わるということでもあるのです。「熱い時代は熱い作品を生む」ということですが、それが必ずしも人々にとって幸福なこととは思えないのが残念です。
「ミュージック・ボックス」 1989年 (監)コスタ=ガブラス
(製)アーウィン・ウィンクラー(脚)ジョー・エスターハス(撮)パトリック・ブロシェ(音)フィリップ・サルド
(出)ジェシカ・ラング、アーミン・ミューラー=スタール、フレデリック・フォレスト、ルーカス・ハース、ドナルド・モファット、ネッド・シュミッケ<あらすじ>
ハンガリーからの移民として37年アメリカで暮らしてきた父親が突然、不法移民、それもユダヤ人虐殺の首謀者として国外追放されることに。
裁判で間違いであることを明らかにするため弁護士の娘が弁護することになりますが、次々に証拠や証人が明らかになります。
父親は本当に無実なのか?娘はハンガリーに証言をあるために向かいますが・・・。ベルリン国際映画祭金熊賞
父親が虐殺犯であるらしいことは予想がつきます。主人公の弁護士のやり方も正義とは思えず、感情移入はできません。
それでもなお、本当は違うのか?それもとハンガリーの陰謀か?父親は無罪放免でいいのか?
最後まで飽きさせない作りは、さすがコスタ=ガブラスです!
地味だし、悲惨だし、感情移入できないし、主人公も魅力的じゃないのに、演技や演出のリアリズムがしっかりしているだけでこうも違うのか!