知の巨人たちが語る「書物」を巡る過去と未来 


「もうすぐ絶滅するという紙の書物について Nesperez pas vous debarrasser des livres」

- ウンベルト・エーコ Umberto Eco、ジャン=クロード・カリエール Jean - Claude Carriere -

 イタリア映画界の大物脚本家ジャン=クロード・カリエールと記号学の専門家であり小説「薔薇の名前」の著者ウンベルト・エーコによる「本について」の対談集を読みました。二人は絶滅の危機に瀕しているとされる書物について語り、そこから様々な分野へと話題を広げてゆきます。
 実に興味深い内容で是非、みなさんにもお読みいただきたいのですが、ここではその中から、「本」とは?「歴史」とは?「芸術と権力」、「宗教」などの部分を書き出してみました。やはり「知の巨人たち」の対話は勉強になります。
 <「本」とは?「名作文学」とは?「知識」とは?>
<文化とは?図書館の意義とは?>
・・・どんなに執拗に過去の声を聞こうとしても、図書館、博物館、シネマテークにあるのは、時が抹消しなかった。もしくは抹消しえなかった資料だけなのです。今日いまだかつてないほど実感されるのは、文化とはすべてが忘れ去られたのちになお残るものにほかならない、ということです。
ジャン=フィリップ・ド・トナック(インタビュアー)

<図書館の魅力>
 大きな公共の図書館でいつもうっとりしてしまうのは、明るい円い光の輪を落とすあの小さな鐘状の緑の灯りで、その光の輪の中心に本があるんです。目の前には今読んでいる本、まわりには世界じゅうの本があります。細部と全体を同時に眺めることができます。それだからこそ、私は近代的な図書館にはなるべく行きません。近代的な図書館は冷たくて、みんな似通っていて、本の姿が見えません。
ジャン=クロード・カリエール

<「本」というメディア>
・・・すでに説明したように印刷された書物は教養ある階層を中心に流通していました。しかし、従来の手書き写本よりは普及率が高かったでしょうから、その意味で印刷技術の助けなしでは考えられません。十六世紀には、ヴェネツィアの印刷業者アルドゥス・マヌティウスの素晴らしい思いつきで、小型本が作られ、書物はずっと携帯しやすいものになりました。情報を持ち歩くのにこれほど効率のいい手段が考察されたのは、私の知るかぎり、初めてです。何ギガものメモリを搭載したコンピューターでさえ電源を必要とします。紙の本にはその種の問題がありません。
 もう一度言いますが、書物は車輪と同じような発明品です。発明された時点で、進化しきってしまっているんです。

ウンベルト・エーコ

<本の魅力>
 世界じゅうの名所旧跡を見尽すことが不可能だからといって、旅することを諦める旅人がいるだろうか。与えられた時間と予算の範囲内で、私たちは自分の好きな旅先を選ぶように、好きな本を選んだところで、そこで待っているのはあたたかい本の世界である。・・・
ジャン=フィリップ・ド・トナック

<傑作とは?時間をかけて育つもの>
 傑作は最初から傑作なのではなく、傑作になってゆくんです。もう一つ言っておきたいのは、偉大な作品というのは、読まれることで互いに影響を与えあうということです。セルバンテスがカフカにどれだけ影響を与えたかということはおそらく説明できるでしょう。しかし - ジェラール・ジュネットがわかりやすく示してくれていますが - カフカがセルバンテスに影響を与えたとも言うことができるのです。もしセルバンテスを読む前にカフカを読んだら、読者はカフカの影響で、みずから、そして知らず知らずのうちに『ドン・キホーテ』の読み方を変えてしまうのでしょう。我々んも生き方、個人的な経験、我々が生きているこの時代、受け取る情報、何もかも、家庭の不運や子供たちがかかえる問題までもが、古典作品の読み方に影響を与えるんです。
ジャン=クロード・カリエール

<永遠の名作とは未完成でなければならない>
・・・「ハムレット」は傑作ではない。出どころの異なる複数の要素が調和しそこない、とっちらかった悲劇である、と。だからこそ、「ハムレット」は謎めいているのであり、誰もが「ハムレット」について考えつづけるわけです。「ハムレット」が傑作なのは文学的に優れているからじゃないんです。「ハムレット」が傑作になったのは。「ハムレット」が我々の解釈に逆らうからです。後世に残るためには、奇抜なことを言うだけで足してしまうこともあるんです。
ジャン=クロード・カリエール
<「歴史」「知識」の価値>
<知識、認識、知性>
・・・知識とは我々が、何の役に立つのかわからないまま、ためこみ持て余しているものです。認識とは、知識を人生経験に変えてしまうものです。したがって、ことによると我々は、更新されつづけるこの知識というものに関しては、機械に任せておいて、認識のほうに集中することができるのかもしれません。
 ミシェル・セールの言葉はおそらくそういう意味に取らなければならないでしょう。事実、我々に残されたものは - なんとも肩の荷が軽くなる話ですが - 知性だけなんです。
・・・
ジャン=クロード・カリエール

<愚かしい知識にも価値はある?>
 愚かしさはしばしば間違いに似ています。愚かしさに対するこの情熱ゆえに、私は贋物についてのあなたの研究に親近感を抱くわけです。どちらも学校教育からは完全に無視されてきた分野ですね。どんな時代にも、その時代稀有の真実があるいっぽうで、その対極に、悪名高い愚説愚行が存在します。これがまたとてつもない愚説愚行なんですが、学校が教え、伝えることになっているのは、真実のほうだけです。いわば、愚かしさは濾し取られてしまうんです。
ジャン=クロード・カリエール

<「歴史」を知る意味とは?>
 最大多数の人間が過去を知るべきかというご質問でしたら、答えは「はい」です。過去を知ることはあらゆる文明の基盤です。樫の木の下で、夜、部族の物語を語る老人こそが、部族と過去をつなぎ、太古の知恵を伝えるんです。我々人類は、アメリカ人みたいに、300年前に何が起こったかなんてもうどうでもいい、自分たちにとっては何の重要性も持たない、と考えたい衝動に駆られるかもしれません。ブッシュ大統領は、アフガン戦争に関する本を読んでいなかったので、イギリス人の経験から教訓を引き出すことができなかった、だから自国の軍隊を前線に送ったんです。ヒトラーがナポレオンのロシア遠征のことを研究していたら、ロシアに侵攻しようなんて馬鹿な考えは起こさなかったでしょう。・・・・
ウンベルト・エーコ
<芸術爆発の秘密>
<創作活動の流派>
 「ビート・ジェネレーション」や「ヌーヴェルバーグ」の登場にも共通しますが、何かのムーブメントが起きた時、そこには天才と呼ぶべき数人からなるグループの存在がありました。イタリア映画界に戦後現れたネオ・リアリズモのグループも、また世界の映画界に大きな影響を残すことになりました。
 創作活動の流派というのは、しばしば、同じ欲望を分かち持った友人同士の小さなグループから生まれてきます。仲良しグループみたいなものですね。私が付き合いをさせてもらったシュールレアリストたちが口をそろえて言ったのは、第一次世界大戦の直後、パリで誰かが呼んでいる気がしたんだ、という言葉でした。マンレイはアメリカから、マックス・エルンストはドイツから、ルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリはスペインから、バンジャマン・ペレはトゥールーズから、同胞たちと出会うためにパリにやってきた、仲間同士で新しいイメージや言語を創作しました。
ジャン=クロード・カリエール

<芸術が選んだ「言語」>
 芸術における様々なムーブメントには、爆発する時代、爆発する場所がありました。
 ところで、一つ解決できない疑問があるんです。時代ごとに芸術に選ばれた言語というのがあるようですが、これはどうしてでしょう。ルネサンス期にはイタリアで絵画と建築が、十六世紀にはイギリスで詩が、十七世紀にはフランスで演劇が発達しました。十八世紀はフランスで哲学、十九世紀にはロシアとフランスで小説が隆盛する、といった具合です。
 私はいつも思うんです。もし映画ってものが存在しなかったら、ルイス・ブニュエルはどうなっていただろうって
・・・・・
ジャン=クロード・カリエール
<権力と芸術>
<国家権力と芸術>
・・・国家権力が強すぎるとき、詩が沈黙します。国家が、たとえばイタリアが戦後ずっとそうだったように、全面的な危機にさらされているとき、芸術は言うべきことを自由に語ります。ネオリアリズモがいちばん活発だったとき、イタリアは粉微塵でした。いわゆる「イタリアの奇跡」の時代にはまだ入っていませんでした。ロッセリーニの「無防備都市」は1945年、「戦火のかなた」が46年、デ・シーカの「自転車泥棒」が48年の作品です。
 十八世紀のヴェネチィアはまだまだ強大な商業都市でしたが、カナレット、グアルディやゴルドーニを輩出したのです。ですから権力がかすんでくると、ある種の刺激を受ける芸術というのがあり、受けない芸術というのもあります。

ウンベルト・エーコ

<焚書という行為の意味>
 焚書を行う者は、焼いたからといってその本を一冊残らず消し去れるわけではないということを重々承知しています。それでは何がしたいのかというと、これは世界を、そして一つの世界観をまるごと焼き尽くすことのできる造物神のような力を誇示する一つの方法なんです。ある種の書物のせいで腐敗した文化を、浄化し、生まれ変わらせるというのが大義名分です。ナチスが「退廃した芸術」という言葉を使ったのは、偶然ではありません。焚書は一種の治療行為なんです。
ウンベルト・エーコ

<毛沢東と「毛語録」>
 毛沢東の発想が天才的、「毛主席語録」を、掲げるだけでいい旗印のようなもの設定したことです。読む必要はないんです。というより、最初から最後まで通して読まれる本じゃないということがわかっていましたから、暗誦して、マントラや連祷のように唱えられる、まとまりのない抜粋や箴言ばかりを集めたんですね。・・・・・
 「毛主席語録」の場合も同じような感じで、非暴力の象徴みたいなかたちで登場したんです。この小さな本を称揚することでそれ以外の本がすべて姿を消すなんてことは、もちろん、おくびにも出さなかったんです。

ウンベルト・エーコ

<「ポルノ」と「革命」>
 フランスの十八世紀は、なんと言っても、挿絵入り官能文学 - 十六世紀にイタリアで生まれたジャンルらしいです - が登場し、地下出版でしたけれども、大変普及した世紀です。サド、ミラボー、レチフ・ド・ラ・ブルトンヌらが、地下出版で作品を残しています。・・・・・
 じつは、これらの作品は、ポルノ文学という仮面を被っているものの、革命を準備した前衛文学でした。当時、文学におけるエロティシズムは、善良な風俗と善良な思想に反するものでした。つまり、良識に対する直接攻撃だったんですね。乱痴気騒ぎの向こうから、大砲の音が聞こえてきます。ミラボーが書いたポルノ作品もそういう性格のものです。セックスは社会を揺るがすものだったんです。

 エロティシズムとポルノ文学と革命前夜の社会状況のこのような結びつきは、当然、厳密な意味での革命期を過ぎると別の様相を呈するようになります。恐怖政治時代に、真の好き者たちがみずからの責任において馬車を借り、コンコルド広場へ赴いて斬首刑を見物し、それによる興奮に乗じて、馬車のなかや広場でさえ、乱交に興じたということを忘れてはいけません。
 サドはその道では比較なき巨人ですが、彼もまた革命家でした。サドが投獄されたのは革命家としてであって、作家としてではありません。
・・・
ジャン=クロード・カリエール
<情報化社会の未来> 
<情報化社会の知識の価値>
・・・自転車に乗れるようになるために、人生のなかの貴重な幾月かを割きましたね。そうして身につけたものは永遠に有効でした。今は、二週間かけて新しい情報処理ソフトについて何か理解したとしても、おおかた使いこなせるよになった頃には、新しいソフトが出てきて、また使い方をマスターしなければいけません。したがって、問題は失われる集団的記憶ではないのです。問題はむしろ現在の不安定さなんだと私は思います。我々が生きている現在はかつてのように穏やかではなく、たえず未来に備える努力を強いられているのです。・・・
ウンベルト・エーコ

 いわゆる原始社会では、変化するものは何もなく、老人は力を持っていた、というのも、老人は子や孫に知識を伝えたからです。世界がたえず革新的に変化している現代では、子供たちが親にエレクトロニクスを教えます。では、親たちは子供に何を教えるんでしょうか。
ジャン=クロード・カリエール

<ネット社会の混沌>
 ネット社会の拡がりはグローバリゼーションを進化させ、世界は平均化し個性を失うのではないか?そう思われましたが、実際にはそうはなっていないようです。
・・・インターネット上を少しうろうろすれば、我々が万人の常識と信じて疑わない概念を槍玉に挙げるような説を唱える団体がごろごろ見つかります。たとえば、地球内部は空洞で、我々はその内側の球面に住んでいるのだとか、世界は本当に6日間で創られたのだとか。したがって、異なる複数の知識に出会う可能性があるわけです。グローバリゼーションにより、みんなが同じようにものを考えるようになるものとばかり思っていましたけれども、じっさいにはまったく逆の結果になりました。グローバリゼーションがもたらしたのは共有経験の細分化という現象でした。
ウンベルト・エーコ

<ネット端末からの膨大な情報の処理>
・・・フィルタリングなしで、ありとあらゆる情報が入手可能になり、端末を使えばなんでもいくらでも知ることができるようになった現在、記憶とはいったい何でしょうか。記憶という言葉は何を意味するのでしょう。・・・義肢的な存在が何でも知っているとしたら、それでも我々が習得しなければならないこととは何でしょうか。
ジャン=クロード・カリエール
 考えをまとめて結論を導く技術ですよ。
 真偽を確かめられない情報をチェックする方法を覚えることですね。

ウンベルト・エーコ

<インターネットと権力>
 インターネットが存在していたら、ホロコーストは起こりえたでしょうか。私はあやしいと思います。起こっていることをみんなが即座に知ることができたわけですから・・・。中国に関しても状況は同じです。中国の指導者たちがいくら躍起になってフィルターをかけ、インターネット上で入手できる情報を制限しようとしても、結局のところ情報は行き来しますし、しかもその行き来は双方向的なものです。中国人たちには国外で起こっていることがわかってしまうんです。そして我々にも、中国で起こっていることがわかってしまいます。
ジャン=クロード・カリエール
<宗教について>
<聖書について>
 今日、大方の専門家の意見は一致していて、「Qゴスペル」と呼ばれる福音書の原型、つまり今あるすべての福音書のもとになった原福音書とでもいうべきものさえ存在したということが認められていて、同じ典処をもとに書かれたと言われているルカとマタイとヨハネの三つの組み合わせれば、これを復元できると言われています。この原福音書は、完全に失われた書物です。・・・
ジャン=クロード・カリエール

<キリスト教と共産主義>
 クンデラの考えはこうです。キリスト教は、告解という制度によって、信者からの深い信頼を獲得することで、恋人たちの閨(ねや)の床にまで侵入し、彼らの官能的遊戯を制限し、ひいては罪の意識を覚えさせることに成功した、と。たとえば、男色の罪を犯した者の、ともすれば甘美な罪悪感は、告解によって贖われなければなりません。罪は結局のところ信者を教会に連れてくるんです。いっぽう、共産主義はそこまでたどり着けませんでした。マルクス=レーニン主義はあまりに複雑で、あまりに強力に組織化されすぎていて、寝室にまで入りこめませんでした。一組の男女、それもできれば不倫関係にあるのが望ましい。彼らが共産主義政権のプラハで、セックスをします。彼らにはまだ、破壊的行為を行っているという意識があります。どこで何をするにも自由が不足しているけれど、寝室のなかでは、彼らは自由なんです。
ウンベルト・エーコ

<仏教について>
 仏教はブッダが35年間かけて話したことを彼の死後、一番弟子のアナンダらが文書に書き起こすことから世に広がりました。(キリスト教におけるイエスの生涯が短かったことと対照的。こちらも弟子の手紙など他者の証言により、聖書が誕生しました)
ジャン=クロード・カリエール

<インドの神>
 インドの世界では、言葉を神に関連づけるという発想はもちろん、天地創造に結びつける発想も見当たりません。なぜかというと、ただたんに、神々自身が創造された存在だからです。はじめに広大な混沌が震え、そのなかを音楽や音の起伏が通り抜けてゆきます。これらの音は、何百万年もかかって、やっと母音になってゆきます。母音はゆっくりと組み合わさって子音の力を借りながら、単語へと変貌し、こんどはそれらの言葉同士が組み合わさって、ヴェーダ(バラモン教の聖典)を構成するんです。ですからヴェーダには作者が存在しません。ヴェーダは宇宙の産物であり、だからこそ権威があるんです。・・・・・
ジャン=クロード・カリエール

「もうすぐ絶滅するという紙の書物について Nesperez pas vous debarrasser des livres」 2009年
(著)ウンベルト・エーコ Umberto Eco、ジャン=クロード・カリエール Jean - Claude Carriere
(聞き手)ジャン=フィリップ・ド・トナック
(訳)工藤妙子
阪急コミュニケーションズ

<ウンベルト・エーコ>
 1932年生まれのイタリアの中世学者、記号学者、哲学者、作家。一般的には、1980年の中世の修道院を舞台にした推理小説「薔薇の名前」によって世界中にその名を知られた。
<ジャン=クロード・カリエール>
 1931年生まれのフランス人作家、劇作家、脚本家。ルイス・ブニュエル作品の多くは彼の脚本。それ以外にも、「ブリキの太鼓」、「存在の耐えられない軽さ」、ピーター・ブルックの舞台劇戯曲の多くを執筆しています。
<ジャン=フィリップ・ド・トナック>
 1958年生まれのフランス人エッセイスト、ジャーナリスト。

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