ドキュメンタリー映画「ズカルスキーの苦悩」
- スタニスラフ・ズカルスキー Stanislav Szukalski -
<ヨーロッパから来た天才>
第二次世界大戦は、ヨーロッパを荒廃させただけでなく、多くの天才たちを流出させることにもなりました。
例えば、「火の鳥」などで有名な作曲家ストラビンスキーは、アメリカに逃れた後ロサンゼルスに移り住みました。彼から直接、作曲などを学んだ生徒の中には、ウエスト・コースト・ロックの鬼才ウォーレン・ジヴォンもいました。
同じようにヨーロッパから逃げて来た天才たちの中には、アメリカに渡って以後、その存在を忘れられたアーティストもいました。その中に、ポーランド出身の彫刻家スタニスラフ・ズガルスキーという人物がいました。
その才能に気が付き、作品の再評価が行われるきっかけをつくったのは、意外なことに1970年代初め、ポップアート界の最下層に位置するコミックを描く若者たちでした。彼らの存在がなければズカルスキ―の存在はそのまま歴史から消えていた消えていたはずです。
ドキュメンタリー映画「ズカルスキ―の苦悩」(2018年)は、彼を発見しただけでなく、彼の芸術論や作品の解説を映像として記録した若者たちによるズカルスキ―へのオマージュです。ただし、それは単に彼の才能を賛美するだけの作品でなく、彼を恐れ、唾棄する部分も記録されています。そこがこの作品最大の魅力とも言えます。
それはズカルスキ―というアーティストがもつ、「光と影」をなす二つの顔があまりに違い過ぎることから生まれています。その二つの顔とは?
<ズカルスキ―誕生>
1893年12月13日、スタニスラフ・ズカルスキー Stanislav Szukalski は、ポーランド中央部に位置するギドレで生まれました。子供の頃から女の子にモテたかった彼は、人形をプレゼントすると女の子に喜ばれることに気づいたことから、人形作りを始めました。それが彼の彫刻製作の原点になったようです。
12歳の時、彼は家族と共にアメリカに渡ります。貧しい東欧を出て、アメリカでの一攫千金を目指した彼の父親は、シカゴの工場で働き始めました。小学校に入学した彼は、英語を学び始めますが、そこで独自のアルファベットの文字を創作して教師を驚かせました。解読困難な彼の文字をやめさせるよう学校は父親を呼び出して説明しました。ところが父親は、息子の好きなようにさせてくれと言ったとか。こうして彼は自分が作った蛇のようにうねった独特の文字を生涯使い続けることになります。しかし、シカゴでの学校生活は短いものになりました。彼の美術の才能に気づいた教師が、彼をヨーロッパの美術学校に入れるべきと父親に進言したのです。こうして彼はまだ14歳の若さでヨーロッパにもどることになりました。
<危険なアーティスト>
1908年、ポーランドに戻った彼は、名門のクラクフ美術学校を受験します。受験生171人のうち合格できるのは11人。受験生に課された最初の試験が、ヌードモデルを前にデッサンをすることでした。ところが彼はその時、モデルの全身ではなく膝だけを描いただけで教師たちをうならせました。そして、その後の試験を受けることなく見事合格。
入学した時点で、彼の芸術論はすでに完成していました。
「芸術は大げさでなければならず、肉体を描くときはあり得ないほどにねじれた姿を描かなければ意味がない」
もちろん彼は、モデルをそのままキャンバスに描き移すだけのデッサンなど意味はないと考えていました。そのため基本から絵画の技術を教えようとする教師たちと衝突し、すぐに退学してしまいます。こうして彼は故国の学校で何も学ぶことなく終わり、母国へと戻ります。
1916年、彼の父親が突然交通事故でこの世を去りました。(この時、彼は父親の遺体を家に持ち帰り、その身体をバラバラにして肉体の構造を調べたということですが、本当か?)
彼にとっての唯一の収入源が失われたことで、彼の行動は荒れて行き、ヤクザまがいの芸術家として悪名高い存在となります。自分以外の作品を認めない彼は、他人の美術展に乱入して暴れたり、批評家を階段から投げ落としたりと暴れまわりました。
そうした暴れ者だったにも関わら、中南米の古代文明から影響を受けた彼の力強く美しい作品への評価は高く、ハリウッドの人気脚本家ベン・ヘクトは、彼のファンであり良き紹介者となりました。
1922年、彼はシカゴの裕福な外科医の娘ヘレンと結婚します。それにより安定した経済基盤を確保した彼は娘のカリンカを得て、幸せな家庭を得たかに見えました。ところが、セックスを嫌悪するヘレンとの夫婦生活はすぐに破綻。彼はカリンカが通う幼稚園の教師ジョーンと恋に落ち、彼女と再婚します。こうして再び経済的基盤を失った彼は、芸術家としての仕事を求めて、再びポーランドへと向かいます。
<ポーランドでの活躍>
アメリカ帰りの芸術家としてポーランドでの活動を開始した彼は、過激な言動で話題になると、若いアーティストたちのリーダー的存在となります。
「美術学校を燃やせ!」
「ポーランドには真のポーランドの芸術を」
などの過激なスローガンを掲げた彼は、地元での展示会を成功させ、彼を支持する若者たちと「ホーンド・ハート(角のある心)」という芸術家グループを結成。同じようなヘアスタイル、同じようなファッションで統一されたグループを率いて国家主義的な芸術運動を展開し始めました。
しかし、こうした運動は収入には結びつかず、彼は再びアメリカへ帰国します。(1930年の世界恐慌の影響もあったのでしょう)
アメリカに戻った彼は収入を得るため、親友ベン・ヘクトからの紹介でハリウッド映画の仕事を受けたりします。なんとその中には、1933年のあの有名な映画「キングコング」もありました。彼はあの映画の特撮シーンで背景画を描いたといいます。もちろんそれは彼がやりたい仕事ではなく、1930年代後半になると、再び彼はポーランドへと戻ることになります。
その頃、ポーランドではドイツと同じように極右の政権が樹立され、国家主義的なズカルスキ―の芸術活動が注目されることになりました。そして、政府は彼に新たな政権の誕生を記念する記念塔などの製作を依頼します。彼はその依頼にこたえるため、すべての作品や資産を持って家族と共にポーランドへの移住を決意しました。
こうしてポーランドへ移住した彼には、次々に政府から仕事の依頼が入ります。再び「ホーンド・ハート」の活動も活発化し、反ユダヤ主義、反共産主義、反カトリックを主張する雑誌を発行するなど、ナチスと同じような極右の活動を始めます。ついにはそんな彼にナチス・ドイツから、ヒトラーとゲーリングの記念碑製作の依頼まで来ました。ただし、彼はそのためのデッサンでヒトラーにスカートをはかせ、バレリーナとして躍らせるデザインを提案し、ナチスを激怒させたとか?(この話も本当かなあ?)
この時期こそ芸術家ズカルスキ―にとって、最も幸福な日々だったのかもしれません。しかし、その幸福な日々は長くは続きませんでした。
<ポーランド脱出>
1939年、ナチス・ドイツはポーランドへの侵攻作戦を開始します。彼のために建てられたズカルスキー美術館で作品の制作作業を行っていた彼は空爆によって建物が破壊されただけでなく、2日間作品の下敷きになり、もう少しで死ぬところでした。なんとか命は救われたものの、彼は自分の作品すべてを爆撃によって失ってしまいました。結局、彼はすべてを失い、家族と共にポーランドを脱出。多くの難民たちと共にアメリカへと舞い戻ることになりました。
帰国後、彼はロサンゼルスのロケット・ダイン社で働くことになりましたが、怠け者のポーランド移民の一人として扱われることに耐えられませんでした。
1957年、彼は再びポーランドに戻り、祖国再建のために働こうとします。しかし、社会主義国家となったポーランドで、かつて共産主義者を弾圧した側の人間だった彼には、居場所も仕事もありませんでした。
こうして彼は失意のうちにアメリカに戻り、そこで静かな隠居生活に入ったのでした。
<孤独で過激な研究者>
彼はアメリカではほとんど無名な存在のまま、愛妻ジョーンとの日々を過ごすことになりました。
資金がなく、発表の場もなかった彼は作品を製作することもできず、持て余した時間を使って、芸術の歴史について研究し始めます。
彼は図書館や美術館で世界中の古代芸術について調べ、その共通点を探し続けました。さらにそれを過去へと辿っていくとそこにはあらゆる芸術のルーツがあるはず。そう考えたようです。その研究で彼が最終的に芸術文化のルーツとして辿りついたのは、南太平洋のイースター島の古代文明でした。
さらに彼の研究によると、戦争や犯罪は、その原因となる人類の「悪の遺伝子」によって行われているとされます。そして、その「悪の遺伝子」は我々人類の女性を類猿人のような下等な生物が犯したことで生まれたと結論づけています。
彼は、どう考えてもまともじゃない独自のカルト的な人類文明の歴史を作り上げていました。
<再発見された男>
彼は、1960年代までは完全に忘れられた存在となっていました。
しかし1970年に入り、画家でアート・コレクターでもあったグレン・ブレイ Glenn Brayが偶然彼の作品を見つけます。そして彼の作品の素晴らしさに気が付きます。そして、その作者が自分の家の近所に住んでいることを知り、早速彼の自宅を訪問。すると、久々の訪問者に喜んだズカルスキーは彼を気に入り、それから長い付き合いが始まることになりました。彼と若い仲間のアーティストたちは、彼独自の芸術論や作品解説の虜になり、創刊されたばかりのファンタジー雑誌「ウィアード」へのイラストなどの依頼するなど彼の復活を手助けします。
1982年から、グレン・ブレイは5年かけてズカルスキーのインタビューを撮影。200時間にも及ぶ彼の人生・芸術論・文明史などを記録しました。
その後も、年老いていく彼をブレイと仲間たちは世話し続けますが、1987年5月19日彼は93歳でこの世を去りました。脳梗塞で倒れ、半身不随になった彼は食事を拒否し、自ら死を選んだそうです。
彼のドキュメンタリー映画「ズカルスキーの苦悩」ではラストにブレイと仲間たちは、ズカルスキーが結局行けなかった人類文明の聖地イースター島を訪れ、そこで彼の遺灰を巻きます。
<二つの顔を持つ芸術家>
故国ポーランドでは国家主義の反ユダヤ、反共産主義の国民的右派アーティストとして彼の知名度は今でも高く、21世紀に入り活発化する極右の活動グループが彼の作品をシンボルとして利用しています。
それに対し、アメリカ西海岸での彼の活動は、カウンター・カルチャーの象徴的存在として静かに英雄扱いされていました。
国境を超え、二つの国で二つの顔を使い分ける人生を歩んだ彼の本当の顔を知るのは、彼の愛妻ショーンだけだったようです。(彼の娘カリンカは早々と父親を捨てたようです)
彼の作品が持つ、あり得ないほどの肉体のねじれは、彼自身の心と体のねじれの表現だったのかもしれません。力強く、美しき、セクシーで、暴力的で、不気味なその姿は、20世紀前半の世界の混乱をも写し出していたようにも思えます。
彼にとっての集大成とも言える作品「カティン 最後の息」は、彼の故国ポーランドの兵士たちがスターリンによって大量に虐殺された事件を描いています。ナチス・ドイツと戦う味方同士だったはずのソ連兵に虐殺された彼らもまた第二次世界大戦が生み出したねじれが生んだ被害者でした。
二つの顔を持つ国ポーランドが生んだ天才彫刻家は、アメリカに渡った時点で、二つの顔を持つ運命だったのかもしれません。
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