英雄たちの輝ける瞬間を描いた伝記小説集


「人類の星の時間 Sternstunden Der Menschheit」

- シュテファン・ツヴァイク Stefan Zweig -

<忘れられた作家?>
 シュテファン・ツヴァイクは、日本だけでなく西欧でも忘れられた過去の作家のようです。僕も今まで彼の作品を読んだことはありませんでした。しかし、ツヴァイクの著書「人類の星の時間」というタイトルを見てから、少々気になっていました。たまたま観た大好きなウェス・アンダーソン監督の映画「グランド・ブタペスト・ホテル」に、「シュテファン・ツヴァイクの著作からインスピレーションを得た」という表記があり、じゃあ読んでみようか。となりました。
 「人類の星の時間」とは、人類の歴史に残る英雄が人生の中で最も輝いていた瞬間、歴史を変えるほどの偉業を成し遂げた瞬間のことをいいます。アンディ・ウォーホルは、人は誰でも5分ならスターになれると言いましたが、ここに登場する英雄たちは「スター」を越えた存在であり、「神」に迫る存在となった人々です。
 ただし、この本の面白いところは、誰もが知っている英雄たち以外の隠れた英雄たちの物語が魅力的なことです。偶然ですが、同じ頃に読んだ掘り出し物の短編小説を集めたオムニバスの中にもツヴァイク作品「昔の借りを返す話」(米澤穂信による編集)という短編が収められていて、それも実に面白かった!

 歴史は自然の精神的な鏡として、自然そのものとおなじように、かぎりない、かぞえきれない多様の形を作り出す。歴史はどんな方法にもとらわれず、どんな法則をも平然と超えてはたらく。歴史は水のように一定方向に向かって流れるかと見えて、またたちまちに、風のゆるやかな偶然の中から雲を作るようにして事件を産む。歴史は、ゆっくりと成長する結晶作用の持つ大きな忍耐によって諸時代を積み重ねてゆくことがたびたびであるが、しかしまた押し迫る大気の諸層を劇的に、ただ一つの閃光へ圧縮することがある。歴史はいつでも形成者であるが、その形成者がほんとうの芸術家として見えてくるのは、そのような天才的凝縮をおこなう諸瞬間においてのみである。なぜなら、無数のエネルギーがわれわれの世界を動かしてはいるものの、われわれの世界に劇的ないろいろの形を与えるのは、ただあんな稀な爆発的諸瞬間だけだからである。

<シュテファン・ツヴァイク>
 シュテファン・ツヴァイク Stefan Zweig は、1881年11月28日オーストリアのウィーンに生まれ、織物工場を営む裕福な家に育ちました。当時のウィーンは、ヨーロッパにおける文学、音楽、芸術、科学の中心地となっていて。彼はその街で青春時代を過ごしました。母親がイタリア生まれだったこともあり、彼はイタリアを愛し、大学ではフランス文学を学び、詩人ランボーを研究。イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクや日本で活躍したラフカディオ・ハーンをドイツに紹介したことでも彼は知られています。
 彼のザルツブルグの自宅は、世界中から様々なアーティストたちが集まり、芸術交流の場となっていて、それが彼に国籍を越えた幅広い著作を生み出させることになったのかもしれません。その家を訪れた人々の中には、ロマン・ロラン、リヒャルト・シュトラウス、ヘルマン・バール、トーマス・マン、ポール・ヴァレリー、H・G・ウェルズ、タゴール、バルトーク、トスカニーニ、ブルーノ・ワルター、ヘルマン・ヘッセなどがいました。
 ユダヤ系のオーストリア人だった彼は、ナチスのオーストリア併合の時点でドイツを離れ、ロンドンに移住。その後、大西洋を渡った彼はアメリカに移住しますが、すぐに南米ブラジルへと移住。しかし、ヨーロッパ文化で育った彼にブラジルの文化はなじめず、第二次世界大戦の拡大にも絶望し、1942年2月23日、妻のロッテと共に薬物による自殺を遂げます。残された遺書の冒頭には、こう書かれていたそうです。
「私の精神の故国ヨーロッパは今や自滅した」
 愛するヨーロッパは戦争により、美しい街並みだけでなく長い年月をかけて育んできた文化を崩壊させ、それが彼の生きる望をも奪ったのでした。21世紀に入り、ヨーロッパは今、再び混沌tごした状況になりつつあります。ヨーロッパにおける移民問題とそれに伴う右傾化の流れが止まりません。今後はいよいよECの分裂が始まるかもしれません。戦後、蘇ったはずのヨーロッパ文化は、ツヴァイクの死の時、以来の危機にあるのです。(2017年3月)

「不滅の中への逃亡 太平洋の発見」 
1513年9月25日 
初めて太平洋を見たスペイン人バルボアの栄光と転落の物語
 長い間恍惚として、バスコ・ヌニェス・デ・バルボアは、海の拡がりを見た。それから初めて彼は、部下の者たちに、そこに来て彼の喜びと彼の誇らしさを、共に分け持つように言った。
 不安な気持ちで昂奮し、喘ぎ、そして叫びながら、彼らは、その丘をよじ上り、駈け上がった。そして、感激のまなざしで眺め、驚き、さし示した。急に同行の神父アンドレアス・デ・バラが、神よ、御身を頌めたたう、と歌い出した。するとすぐさま、騒ぎと叫びは静まって、これらの兵たち、冒険家たち、盗賊たちの、堅い荒くれた声が敬虐な讃美歌を合唱した。


 スペイン人として、ヨーロッパ人として初めて、パナマ地峡を越えて太平洋を見た冒険家バルボア。彼はその後、南米の太平洋側を探検するために4隻の二本マストの帆船を山を越えて運ばせたことでも知られています。その後、船の運搬に失敗した彼は、太平洋側で船を建造し、探検を続けようとしましたが、出発を前に同じスペインから国王の支持でやって来たピサロによって呼び戻され、反逆者として処刑されてしまいます。
 その後、ピサロはバルボアの手柄を横取りするようにして探検を続け、インカ帝国の征服を成功させます。もし、彼がピサロの命令に従わず、先へ向かっていたら、彼がインカ帝国の征服者になっていたかもしれません。運命の神様は、タッチの差でピサロを英雄に選んだのでした。(長い目で見ると、彼こそ「最悪の暴力的侵略者」なのですが・・・)
「ビザンチンの都を奪い取る」
1453年5月29日 
マホメット率いるトルコ軍によって征服されたビザンチン帝国、その勝負の分かれ目となった運命的なミスとは?
・・・その翌日には早くも、労働者らがマホメットの命令に従って、キリスト教の信仰を象徴しているものを一つのこらず取りはらい、祭壇をこわし、敬虐なモザイクの絵を塗り消し、そして、千年の間地上のあらゆる悩みを抱き取るために腕をひろげていた高い十字架 - ハジア・ソフィア(アヤ・ソフィア)の十字架が、にぶいとどろきを立てて地面へくずれ落ちた。
・・・その知らせはローマ、ジェノア、ヴェネチアに反響しておどろきと恐れとを感じさせ、またいましめの雷鳴のようにフランスへ、ドイツへつたわって聞えてきた。そしてヨーロッパが鈍感な冷淡さを持ち続けたために、運命的なケルタポルタの、うっかり忘れられていたあの門から、大きな運命的な破壊の暴力が侵入し、そのために今後数百年にわたってヨーロッパは認識してぞっとした。しかし、歴史の中でも人生の中でも、後から悔いてももはや取り逃がした瞬間を取り返すことはできない。そしてただひとときの怠慢の結果をつぐなうには千年の歳月がかかる。


 トルコ皇帝マホメットによるビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルの攻撃は、難攻不落と呼ばれた城塞の壁に阻まれます。しかし、勢いを失いつつあったビザンチン帝国は、ヨーロッパの強国ヴェネチアなどの国々から見捨てられ、わずかな援助しか得られませんでした。それに対し、トルコ軍は新たな大型大砲の導入により障壁を攻撃します。ところが、なぜかその城壁の門の一か所が守られていませんでした。偶然、そのことに気づいたトルコ軍はそこから侵入に成功し、一気に攻め落としに成功します。
 まさかのミスによって、ヨーロッパ、キリスト教文明の象徴だったビザンチン帝国がイスラム教のトルコ帝国に破れたことは、ヨーロッパにとって大きな衝撃となります。こうした状況は、第二次世界大戦の開戦時、ヨーロッパ諸国がポーランドを見捨てドイツに占領させた歴史を思い出させます。歴史は、その後も、何度となく繰り返されているのです。 
「ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデルの復活」 
1741年8月21日
才能の枯渇に悩んでいた作曲家ヘンデルが奇跡の復活を遂げた3週間
 ヘンデルは息がつまりそうだった。真理がここに、まったく偶然な人間の言葉を通じて言われていた。神がこの言葉を彼に送ったのだ、それは上から彼に告げられたのだ。「神の与え給える言葉なり。」 - 言葉が、響きが、恩寵が神から来た!
 これは再び神へ還らねばならぬ。心情の潮によって再び神の許まで高められねばならぬ。神を頌め歌うこと、それがすべての創作者への悦ばしい願いであり義務である。・・・
 「神を頌ねよ(ハレルヤ)!」そうだ、この叫びの中に地のいっさいの声を溶け込ますのだ。明るい声と暗い声を。男の強靭な声を、女の従順な声を。それらすべての声をして充実させ、高まらせ、往きめぐらせ、リズムある合唱の中で結合させ、解きほぐし、音のヤコブの梯子を昇らし降ろし、ヴァイオリンの甘美な弦音で緩和させ、ラッパ吹奏の鋭い音で鼓舞し、パイプ・オルガンのいかずちの中にとどろかせる。
・・・

 ドイツの作曲家ヘンデルは、イタリアでオペラを学んだ後、帰国してオペラの作曲家となります。そして、彼はイタリアのオペラが流行し始めていたイギリスに招かれます。ロンドンではオペラハウスも作られていて、彼はそのままそこに住んで仕事をするようになり、英国籍を取得します。(そのため、彼の名前は本当は「ハンデル」と発音すべきだといいます)ところが、オペラのブームは長続きせず、ロンドンのオペラハウスも倒産してしまいます。ドイツ出身ということで差別も受け、仕事の激減。そのうえ、彼は50代の若さで脳溢血で倒れ、半身まひとなってしまいます。
 そんな危機的状況の中、彼のもとを訪れた無名の詩人の作品を読んだヘンデルは、神からのメッセージだと受け止めます。(まるでブルース・ブラザースのように!)お金になるならないではなく、今こそ自分は神のために曲を作るべきだ!そう自覚した彼は、自室に3週間閉じこもり、いっきに新曲を書き上げます。それが彼の代表曲となった聖曲(オラトリオ)「メシア」です。
 名曲誕生の裏話は様々ありますが、これだけ古いのは珍しい。でも細部まで描かれていて、まるで映画を見ているようです。
「一と晩だけの天才」
1792年4月25日 
究極の一発屋、ルジェ大尉によるフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」誕生秘話
 さあ行こう、祖国の子らよ
 光栄の時は今や来た!
 祖国への聖なる愛よ、みちびき支えよ
 懲らしめるわれらの腕を!
 自由よ、自由よ、最愛のおんみよ、
 たたかえ、おんみの護りてらとともに!


 フランスはプロシアとの戦争を決断。開戦のために国境近くの街ストラスブールにはフランスのライン軍が集結し、戦闘開始の時を待っていました。ストラスブールの市長は、兵士たちの士気高揚のために式典を準備。待機する兵士たちの中にいた無名の作曲家ルジェ大尉にみんなで歌うための曲を作るよう依頼します。ルジェ大尉は、その夜、ひと晩かけて兵士たちのための歌を作詞・作曲します。こうしてできた曲「ライン軍のための軍歌」は、さっそく兵士たちによって歌われますが、そのまま兵士たちは戦場へと向かい歌もまた消えてしまいました。
 ところが、フランス南部マルセイユの街でも同じように志願兵が集められると、そこで一人の学生兵士が「ライン軍のための軍歌」を歌うと、その場にいた兵士たちだけでなく進軍中に通過した街の人々までもがこの歌を歌い始めます。そして、いつしかその曲は「ラ・マルセイエーズ」というタイトルになっていました。
 「ラ・マルセイエーズ」は、その後、あまりに流行してしまったために「革命の歌」として危険視されることになり、皇帝となったナポレオンはこの歌を歌うことを禁止。ブルボン家もまたこの歌を禁止することになります。しかし、こうした対応はこの歌にさらなるパワーを与えることになり、1830年の「7月革命」以降、この歌はフランスの国家となります。
 ところが、この歌の作者ルジェ大尉は、退任後、作曲家として多くの仕事をしますが、どれもヒットすることはなく、忘れられた存在になってしまいます。音楽界には、「一発屋」と呼ばれるアーティストは数多いのですが、彼こそ「究極の一発屋」と呼ぶべき存在かもしれません。
「ウォーターローの世界的瞬間」
1815年6月18日
ナポレオンを敗北に追い込んだサラリーマン指揮官の大失態
 グルシーは一瞬間だけ考えた。そしてこの一瞬間が彼自身の運命と、ナポレオンの運命とそして世界の運命とに形を取らせることになった。ヴァルハイムの農家の中のこの一秒間が19世紀全部について決定した。なかなか実直だが大いに平凡な人間の口に、不滅性を左右する一瞬間がゆだねられ、その不滅性は、皇帝の不運な命令書を指のあいだで神経質に揉んでいたその人の掌中に、いともむぞうさにはっきりと持たれていたのである。
 もしもその瞬間にグルシーが勇気ある決断をつかむだけに大胆であり、自信とそして明白な運命の星の認識とにもとづいてナポレオンの命令を無視することができていたなら、フランスは救われたことであろう。しかしこの平凡な従属的精神の持ち主は、いつでもただ上官のいいつけにだけしたがい、運命のうながしの声にしたがうことを決してしなかった。


 ナポレオン率いるフランス軍は、歴史に名高い「ウォーターローの戦い」に向かうべく進めようとしていました。彼は、出発を前にして、部下のグルシー元帥を呼び、敵対する連合軍の一部をなすプロシア軍を叩くため、軍団の3分の1を率いて独自に敗走しつつあるプロシア軍を追えと指示されました。ナポレオンからの命令に彼は感激し、さっそく彼は軍団を率いて出発します。ところが、プロシア軍は敗走したのではなく、ウォーターローに終結すべく移動していたことをグルシーは知りませんでした。
 プロシア軍を追うグルシーは、目標を見つけられないまま時が過ぎます。部下たちは、ナポレオンのもとに戻るよう進言しますが、命令を守ることしか考えられなかった彼は無駄な時間を使い続けました。結局、その間にナポレオンは、プロシア軍の増援を得た連合軍によって敗れてしまいます。もし、グルシーに英雄となるべき覚悟があれば・・・彼は命令に背いてナポレオンのもとに戻っていたかもしれません。
 歴史を変えるのは、「英雄」だけではなく、「英雄になれなかった人物」の失態でもあるのです。こうした、自ら判断できない指揮官による敗北は、歴史上いくらでもありそうです。(太平洋戦争における日本軍もその拡大版だったといえます)

 地上の人間たちの中へきわめて稀にしか下りて来ないようなそんな偉大な瞬間は、それを生かすことのできない不適任者におそるべき報復をする。あらゆる市民的美徳、ひかえめ、従順、熱心さと穏健、それらはつねにただ天才力を要望し、天才力を持続的な姿にまで形づける大きな運命的瞬間の白熱する炎の中では力なく溶け去ってしまう。そんな瞬間は尻込みする者を軽蔑をもって押し返す。地上の別格の神とも言うべきそんな大きな運命的瞬間は大胆な者だけを、炎の腕でつかんで英雄たちの天堂にまで引き上げる。
「マリー・エンバートの悲歌 カルルスバートからヴァイマルへの途中のゲーテ」
1823年9月5日
老いらくの恋に狂ったゲーテが生み出した悲しき恋の歌
 わたしは再会にどんな希望を持てるのか?
 今はまだ咲かない花であるその日に?
 楽園か地獄かがわたしの前に開けている。
 心の中に何と不安の起こることか!
 ・・・
 かつてわたしは、自然の神々からあんなに愛でいつくしまれていたのだ。
 神々はわたしに試練を与え、良い宝と希望とのいずれにも豊かなかずかずのパンドーラたちをわたしに遣わし
 わたしの口に、めぐみゆたかな幸福の歌をうたわせたのち
 わたしを見捨て、うちたおす。


 19歳の娘ウルリーケに恋してしまった74歳のゲーテは、彼女に求婚します。しかし、その申し入れにに対し、ウルリーケは即答せず、うやむやにします。その対応に悶々としながら、ゲーテは帰宅する途中、馬車の中で彼女への熱い思いを一気に詩に込めました。そして、ゲーテの有名な詩「マリーエンバートの悲歌」が誕生します。
「エルドラード(黄金郷)の発見」 
1848年1月
「黄金狂時代」によってすべてを奪われたJ・A・ズーター、悲劇の人生 
 もっとも富んでいる?いや - もっともまずしい、もっともあわれな、もっとも失意の乞食に彼はなるのである。一週間ののちには秘密が洩れた。一人の女 - いつでも女だ! - が通りがかりの人間に話してしあい、そしてニ三粒の金の砂を与えたのである。たちまちズーターのもとで働いていたすべての人間が仕事をおっぽりだした。・・・

 冒険家としていち早くアメリカ西部のカリフォルニアにたどり着いたズーターは、豊かな土地で果樹や小麦の栽培により巨万の富を得ます。45歳で大富豪となった彼は、ある日、自分の土地で砂金が見つかったことをしります。それで、さらなる大金持ちになるのかと思いきや、なんと砂金採りによって彼の雇人たちが仕事を放棄。思えば、アメリカへの移民の多くは一攫千金目当ての人々です。金に目がくらむのも当然です。
 それに対し、ズーターは訴訟を起こし、彼の土地から奪われた金や農作物の被害を周辺住民1万4千人に対して請求。裁判で勝訴します。ところが、その結果に住人たちが暴動を起こし、彼の次男が殺され、長男は自殺に追い込まれます。その後、彼は生涯、奪われた財産を取り返すための裁判を続けますが、報われることはありませんでした。砂金に目がくらんだ人々によってすべてを奪われた彼は、家族や財産を失っただけでなく、正気をも奪われてしまったのでした。
「壮烈な瞬間 ドストエフスキー、ぺテルスブルグ、セメノフ広場」 
1849年12月22日
「罪と罰」を生み出した作家が体験した死刑の瞬間 
 そして今、彼にははっきりと解った
 あの瞬間の彼自身が
 千数百年の昔に十字架につけられた
 あの彼であったこと、
 そして彼自身もあの彼のように
 死の熱い接吻を受けてからは
 生を悩みのために愛さなければならないことが解った。


 社会主義思想のグループに所属していたドストエフスキーは、ロシアの警察によって逮捕され、反体制派の危険人物として死刑を宣告されます。クリスマスを前にした12月、彼は広場に他の囚人たちと共にならばされ、コサック兵の射撃部隊の的になります。死を覚悟した彼ですが、死刑執行の直前になって彼らは減刑され、シベリア送りとなりました。(後に、この銃殺刑は初めから中止されるはずだったことがわかったようですが・・・)
 死を目前にしたドストエフスキーの心の内を、ここで著者は長い詩として描き出しています。
「大洋をわたった最初のことば サイラス・W・フィールド」
1858年7月28日
アメリカとヨーロッパを言葉でつないだ英雄、多難の歴史
 一つの奇蹟または奇蹟的にすばらしいものが完全に実現するための第一条件はつねに、この奇蹟への或る一人の個人の信念である。学者たちがためらっていたまさにそのとき、学問にとらわれていない一人の人間の素朴な勇気が、創造的な原動力を与えることができた。・・・

 ヨーロッパとアメリカとを結ぶ通信用の電線はいつどうやって引かれたのか?僕はまったく知りませんでした。
 1858年7月28日、3度目の挑戦でついにその偉業を成し遂げたのは、サイラス・W・フィールドというアメリカの青年実業家でした。彼は当初、ニューヨークとニューファンドランド(アメリカの東の端)を結ぶ電線敷設工事への出資を持ちかけられたのですが、それなら一気にヨーロッパまでつなげたら?と考えます。そして、ヨーロッパとアメリカを結ぶためのプロジェクトを立ち上げ、出資者を集めます。
 ところが、敷設工事は嵐や技術的なミスなど、様々なトラブルにより失敗が続き、3度目でやっと成功します。ところが、電流を流し過ぎるという初歩的なミスにより、せっかくの電線を使えなくしてしまいます。一時は大統領に招かれ、アメリカの英雄となったはずが、その失敗により彼はマスコミから叩かれ「詐欺師」の汚名を着せられることになりました。
 それでも彼は事業をあきらめず、6年後、再び敷設工事に挑み、無事に成功させます。残念ながら、その時、彼の偉業はほとんど話題になりませんでしたが、彼こそ本物の「英雄」なのかもしれません。
神への逃走 レオ・トルストイの未完成の戯曲「光闇を照らす」への一つのエピローグ」 
1910年10月
トルストイ最後の逃亡は、いったい何から逃げたのか? 
 「何だって?レオ・トルストイが家出したって。その新聞をぼくに読ませてくれませんか。おお、これはいい。彼がとうとう踏ん切りをつけたのはいい」
 「いったいなぜいいんだね?」
 「これまでのように彼の生活が彼の言論に反していたことは恥だからね。彼はずいぶん永いあいだ伯爵らしくふるまうことを周囲から強いられていたんだ。それで本心の声をごまかして圧し殺していた。今こそレオ・トルストイは自分の本心から自由に人々に話しかけることができるんだ。彼を通じて世界が、このロシアで民衆の中に何が起こりつつあるかを知るがいい。そうだ、あの聖なる人がとうとう自分を救い出したことはいいことだ。それはロシアにとっての幸福だ。
・・・

 トルストイが遺稿として残した自伝的な戯曲「光闇を照らす」は未完成のまま発見されました。著者のツヴァイクは、その最終章を同じように戯曲として描いています。それは、トルストイが、歴史上最も有名な悪妻と言われるソーニアから逃れ、行方不明になった後、病に倒れ、小さな街の駅舎に担ぎ込まれるまでの日々を描いています。この時のトルストイの旅については、映画「終着駅 トルストイ最後の旅」(2009年)に詳しく描かれていますので、是非ご覧ください!

 「レオ・トルストイを連れ去ることで誰が得をするというんですね・・・」
 「彼ら全部ですよ - つまりトルストイが邪魔でたまらない人々、ギリシア教司教会と、警察と、軍部の人々、トルストイをこわがっている全部の人々ですよ。今までにも二三、こんなふうにして行方不明になった人々がある - 外国へ行ったんだということにされたが。・・・・」


 トルストイの失踪は、様々な人々にとって、様々な意味をもつものでした。
「南極探検の闘い スコット大佐、90緯度」 
1912年1月16日 
伝説となった大いなる失敗はなぜ語り継がれているのか?
 おお、否!彼らの功績は思いがけない、すばらしい仕方で復活した。われわれの現代技術の奇蹟!スコットの同僚の彼らは乾板やフィルムを持って帰国した。探検の旅の奇蹟!スコットの同僚の彼らとその同行者たちの姿、そしてほかにはただアムンゼンだけが見たことのあった南極のけしきが、乾板やフィルムから現像されて現れ出てきた。スコットの書きとめたことばや手紙の内容が、電信によって伝えられ、それを知って世界は驚嘆した。イギリスの大伽藍の中では王が英雄たちを追悼してひざまずいた。このようにして、実りのなかった努力のように見えたものが今一度実り、成功を取り逃がしたあの行動が、人類のエネルギーを、まさに達成のむつかしいものに向かって雄々しく集中させるための、人類への高らかな呼びかけとなった。・・・
 単に偶発的な成功や、安易な成就は野心を強めること以上には出ないのであるが、全能の運命と十分に取り組んだ結果としての敗北は心情をもっとも堂々たるものである。そんな悲劇をときおり詩人が作品として生かすが、実人生の中にはそんな悲劇はいろいろな形を取って数多く起こるのである。

 世界初の南極点到達を目指し、そこに到着したもの自分たちは2番手あったことを知ったイギリス隊。彼らを率いたスコットと隊員たちが、季節はずれの寒さによって、帰還途中で死亡した悲劇は誰も知る有名なエピソードです。
 しかし、その悲劇の物語が今でも様々に語られるのも、そのドラマが生きて帰った隊員たちの証言や残された写真、手紙、日記などによって正確に記録されていたからこそでした。生きては帰れないだろうと知りつつも、彼らは記録をとったり、採集作業を行ったり、日記を続けたりしながら最後の最後まで探検隊の仕事をまっとうしました。「世界初」の価値だけが評価される中で、2番手でありながら未だに忘れられない存在であり続けるのは、彼らのこうした勇気ある仕事ぶりによるものなのでしょう。
「封印列車 レーニン」 
1917年4月9日
ロシア共産党思想を生み出したレーニンが、革命で混乱するロシアに帰国するために乗り込んだ特別列車
 しかし、その後現実が与えた答えは前代未聞のものであった。列車がフィンランドの駅に入るとすぐに、駅前の非常に大きな広場は数万の労働者でいっぱいになり、あらゆる種類の武器を持つ儀仗兵たちが、亡命からのこの帰国者を待ち続けていて、インターナショナルの歌が鳴り響いた。そしてウラディミール・イリイッチ・レーニンが下車するとたちまち、一昨日はまだ靴直しの家の同居人だった彼は早くも多くの人々の手によって、装甲自動車の上に乗せられた。家々からのまた要塞からの、探照燈の明かりが彼に向けられた。そして彼は装甲自動車の上から、民衆への彼の最初の演説をしたかずかずの街路はふるえ、やがてまもなく「世界を震駭する10日間」が始まった。発射はなされ、そしてそれは一つの国、一つの世界を打ち砕いた。

 社会主義思想家として危険人物とされ国を追われスイスで亡命生活をしていたレーニンが、ロシア革命の始まりを知り、危険を覚悟でロシアに帰国することを決意します。しかし、国境の警備は厳しく、もし見つかれば無事には帰国できないはずでした。そこで彼は、自分のための特別列車を運行させようと動きます。しかし、お金も権力もない思想家が、どうやってそんなことを実現できたのか?
<参考>レーニンの帰還以後の歴史については、ウォーレン・ベイティの歴史大作「レッズ」に詳細に描かれています。是非、ご覧ください!

<参考>
「人類の星の時間 Sternstunden Der Menschheit」
 1927年(完全版は1943年)
(著)シュテファン・ツヴァイク Stefan Zweig
(訳)片山敏彦
みすず書房

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